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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『『白樺』創刊110年 美術への情熱 160冊に込めた思い』

展覧会『『白樺』創刊110年 美術への情熱 160冊に込めた思い』を鑑賞しての備忘録
調布市武者小路実篤記念館にて、2020年10月17日~11月29日。

雑誌『白樺』創刊110年を記念して、同誌と同人達の美術に対する取り組みとその影響を振り返る企画。

 白樺は自分逹󠄃の小なる力でつくつた小なる畑である。
 自分達はこゝに互の許せる範圍で自分勝手なものを植ゑたいと思つてゐる。さうして出來るだけこの畑をうまく利用しやうと思つてゐる。
 しかし自分達が今後この畑に如何なるものを植ゑるか、如何にこの畑を利用するかは自分逹󠄃にもわからない、讀者以上の好奇心を持つて白樺の未來を見たいと思つてゐる。
 だから今は自分達のこの畑を出來るだけ活用しやうと思つてゐることきり公言することは出來ない。さうしてその結果は今後の白樺によつて見て戴くより仕方がない。
 しかし自分逹󠄃の腹の底を打ちあけると可なりの自惚がある。「十年後を見よ」と云ふ氣がある、しかしそれは内證である。(『白樺』創刊号掲載の武者小路実篤による創刊の辞)

学習院武者小路実篤、正親町公和、志賀直哉、木下利玄が、自作の文学作品を持ち寄る「十四日会」(回覧雑誌は『望野』)を1907(明治40)年に始める以前から、彼らは日本橋丸善に通い、外国の美術雑誌、画集(C.Lewis Hind, "The Post Impressionists"、Jukius Meier-Graefe,"Vincent Van Gogh"など)、複製画(Eduard Manet《Krocketspiel》、Paul Cézanne《Stillleben》などドイツの出版社ため作品名がドイツ語である)、写真を通じて美術への興味を深め、絵葉書(1900年に私製葉書の使用が可能になって絵葉書がブームに)で感想をやり取りしていた。「十四日会」のメンバーに加え、同じく学習院の学生が発行した回覧雑誌『麦』の園池公致、里見弴、児島喜久雄、田中雨村ら、『桃園』の柳宗悦郡虎彦、さらに有島武郎、有島生馬が同人となって、1910(明治43)年4月、雑誌『白樺』が創刊される。以降、同誌は関東大震災(1923年)で最新号(161号)が印刷所もろとも消失するまでの13年余の間に160冊を刊行した。毎号必ず美術図版が掲載され(最多はドイツの画家アルブレヒト・デューラーの27回)、時に芸術家の特集号(第3巻第4号はエドヴァルド・ムンク特集)を組むなど、美術雑誌としての側面を有していた。第1巻第8号(1910年11月)はオーギュスト・ロダンの特集を組み、ロダンのメッセージ入りの肖像写真と、彫刻や素描の挿絵19点を掲載した。この際同人がロダンの所望する浮世絵を30点送ったところ、本人から素描ではなく予想外に彫刻3点(《一つの小き影》、《巴里児の首》、《マダムRodinの胸像》)が送られてきた。『白樺』は創刊3ヶ月後には既に展覧会を開いていたが、第4回美術展覧会(1912年)ではロダンの彫刻がお披露目された(全部で13回開催。うち5回は同人関連で、有島生馬・南薫造滞欧記念、梅原龍三郎滞欧記念と、岸田劉生、河野通勢、椿貞雄の個展。1回は公募展。残りの7回が西洋美術の紹介)。また、ロダンの彫刻が契機となり、公共美術館建設プロジェクトを構想する。第8巻第10号は「美術館をつくる計画に就て」を公表、『白樺の森』(1918)・『白樺の園』(1919)(いずれも装幀はバーナード・リーチ)を出版したり寄附を募ったりして(柳宗悦の妻である声楽家の柳兼子は独唱会を開いている)建設資金を集めた。ポール・セザンヌの油彩画《風景》とアルブレヒト・デューラーの銅版画《正義》(現在、日本民芸館所蔵)を寄付金で購入。細川護立の購入によるポール・セザンヌの油彩画《自画像》(現在、アーティゾン美術館所蔵)、山本顧弥太の購入によるポール・セザンヌの油彩画《浴する男達》(現在、アーティゾン美術館所蔵)とフィンセント・ファン・ゴッホの油彩画《向日葵》(第二次世界大戦時に消失)など、白樺美術館のためにコレクションされた15点が白樺美術館第1回展覧会(1921年)で観覧に供された。だが第13巻第6号(1922年)において、西洋から絵画がもたらされるようになったことから自前の美術館の仕事は打ち切りにすると宣言されて美術館建設は途絶した(なお、ロダンから送られたブロンズ像は大原美術館に「白樺美術館」からの永久寄託品として所蔵されている)。本展には『白樺』に関わった画家たちの作品が展示されている。梅原龍三郎《モレー》(1911)、山脇信徳《雪の停車場》(1910頃)、岸田劉生《椿君に送る自画像》(1914)、岸田劉生《春日遊戯図》(1917)、河野通勢《風景》(1916)、木村荘八《睡眠》(1917)、椿貞雄《武者小路実篤氏之肖像》など。

 

『白樺』の同人たちは、オーギュスト・ロダンに手紙を送り、肖像写真を手に入れ、さらには実作を手に入れる僥倖に恵まれた。印刷物を通じてしか知ることのできなかったヨーロッパの先端的な美術の世界に対する強い憧憬と行動。日本の若者達の熱意に応えたロダン。そして、同人達の歓喜
分離派建築会結成に動機を与えたのも白樺派である。