映画『私をくいとめて』を鑑賞しての備忘録
2020年製作の日本映画。133分。
監督・脚本は、大九明子。
原作は、綿矢りさの小説『私をくいとめて』。
撮影は、中村夏葉。
編集は、米田博之。
合羽橋で食品サンプルの制作体験に参加し、「海老の天麩羅」を制作。充実した休日に大満足して、帰りにデパ地下で購入した海老の天麩羅を頬張る黒川みつ子(のん)、31歳。絵を描くのが好きで、大学時代には美術サークルに所属していた。だが、美大生に太刀打ちできるはずもなく、辛うじて「美術寄り」の広告会社に就職できたものの、仕事は雑用が中心。先輩のノゾミさん(臼田あさ美)の存在があって何とか仕事が続いている。大学時代の無二の親友・皐月(橋本愛)は結婚してイタリアに飛んでしまい、休日は専ら一人で過ごしている。目下の課題は、夜な夜なマンションの地下から聞こえてくるホーミーについて不動産会社に苦情を申し入れること。そして、最大の問題は、週1ペースで料理を受け取りに来る得意先の営業・多田くん(林遣都)との関係だ。一人鍋の材料を調達するため地元の商店街を徘徊中、肉屋の店先でコロッケを買うための行列に並ぶ多田くんにばったり出会ったのが始まり。黒田さん、この辺に住んでいるんですか? 自転車で5分くらいかな。僕も近所です。ここのコロッケはすごく美味いんですよ。黒田さんは何をしてるんですか? 鍋に不可欠の九条ネギを駅前まで買いにいくところ、この辺に売ってないから。挨拶を交わして去ったみつ子を多田くんが追いかけてきた。彼はみつ子にコロッケを1つプレゼントしてくれたのだ。これをきっかけに、みつ子は多田くんに手料理を振る舞うことになった。もっとも、みつ子の部屋に上がって食事をしていくのではない。多田くんがみつ子の部屋の玄関までやって来て、みつ子がタッパーに詰めた料理を受け取るのだ。多田くんは果たしてどんな気持ちでみつ子の部屋の玄関を訪れているのだろうか。
広告会社に勤務する31歳の女子・黒川みつ子(のん)の日常を描く。
この作品の枠組みとなっているのは、みつ子の「一人芝居」による「会話劇」だ。すなわち、みつ子と、彼女の問いかけに答える「A」(中村倫也)とのやり取りである。みつ子は、家庭用ゲーム機におけるロール・プレイング・ゲームの嚆矢『ドラゴンクエスト』(第1作)の伝説の勇者ロトの末裔(プレイヤーキャラクター)よろしく、一人で冒険に出る。焼き肉店で肉を平らげ、日帰りで温泉に浸かりとするうち、「おひとりさま」のレヴェルが上がっていく。他方、プレイヤーキャラクター俯瞰するプレイヤーのように、「A」は、「おひとりさま」の経験値を獲得すればするほどみつ子がやさぐれていくことに気が付いている。そこで、「A」は言葉の最後にハートマークをつけるようみつ子に提案したりする。
現生人類が現生人類になったのは、ほとんど突然変異のような事態があって、俯瞰する眼が作図能力として自立し、そのことによって自在に他者と入れ替わることができるようになったこと、そしてそれが言語能力によって対象化され明確化されたこと、によってである。自他入れ替わり――あるいは他者への憑依――を可能にするこの俯瞰する眼は一種の咲くぞ能力と見なすことができるが、この作図能力が言語能力、文法能力の前提となっていることは疑いないと、私には思われる。
魂も霊も神も、この作図能力が必要とした虚構の点のようなものにほかならない。少なくとも、そう考えないと辻褄が合わない、と私は思う。
現生人類が現世人類になるためにはこの虚構の点、虚点、あるいは幻点とでもいうほかないものを必要としたのである。だが、必要とされて作図されたその虚構の点が、ひとたび描かれるやいなや、逆に、起点とされ原点とされてしまった、衣装とアクセサリーの起源の逆転ではないが、便宜上発明されたにすぎない神が、事後には、ことの全体の起点であるかのように見なされてしまったのである。そう考えることができる。
事実、それは、虚構の点であるにもかかわらず、きわめて具体的に働くのである。虚点は神や霊や魂だけではない。身体そのものがあたかも虚点であるかのように見なされる。たとえば、自分は、自分から離れたところから自分自身を見ていたとうことが、しばしば経験的な事実として語られもするのだ。
私は、優れたダンサーが、上演中のクライマックスで、中空へ高く跳躍している自分自身を背後からはっきり見たという話を、何度かじかに聞いたことがある。日本人ならば、世阿弥に倣って離見の見とでもいうところだろう。(略)
どういうことか。普通、考えられないことであるにもかかわらず、誰もそれを問題にしないのはなぜか。
唯一考えられることは、じつは誰もがつねに自分自身を俯瞰している、作図しているにもかかわらず、そのことをたんに忘れているにすぎないのだ、ということである。あるいはたんに抑圧しているにすぎない。
(略)
つまり、自我の同一性は、さまざまな抑圧、さまざまな隠蔽によって辛うじて保たれているにすぎないということである。同じように、人は自分自身およびその周辺をつねに俯瞰し作図しているのだが、日常ではそのことを忘れているにすぎない、ということである。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』講談社/2018年/p.426-428)
みつ子は、みつ子と「A」とを2つの焦点とする楕円として存在する。2焦点間の距離がゼロになるとき、それはみつ子と「A」とが完全に一致することを示すのではなく、「A」の消失を意味する。みつ子は自らを俯瞰する視点を失い、(楕円よりも円の方が転がりやすいため)転がり続けることになるだろう。温泉でのある出来事をきっかけにみつ子が怒りに囚われてしまう場面がその典型だ。すなわち、人は二重性を保つときにこそ安定があるということだろう。基音と倍音から成るホーミーが地下から響いてくるという演出は、二重性を保つべきだとの心の声なのかもしれない。
みつ子と「A」同様、、みつ子とノゾミさん(臼田あさ美)、みつ子と多田くん(林遣都)、みつ子と皐月(橋本愛)のように、原則として2者間のシーンの組み合わせから成る。
のんが美しすぎる(映像作品は初見)。多田くんは彼女の美しさゆえに敷居を跨げないのではないか。のんと橋本愛との競演はイタリアであろうがなかろうが別世界を出現させている。
温泉での演芸ショー(吉住というピン芸人のネタ)で笑わせておいてからの展開には度肝を抜かれる。中村倫也や前野朋哉の「出演」のさせ方も凄い。
絵を描くのが好きという設定はのんの芸術活動に絡めてのものだろうか。大滝詠一の「君は天然色」を劇中曲に採用するのも(「想い出はモノクローム 色を点けてくれ」)、絵画的イメージの連なりを感じさせる。