可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『舟越 桂 私の中にある泉』

展覧会『舟越 桂 私の中にある泉』を鑑賞しての備忘録
渋谷区立松濤美術館にて、2020年12月5日~2021年1月31日。

舟越桂の彫刻展。地下1階(第1展示室)は、最初期の《妻の肖像》(木彫作品と元になったデッサン)をはじめ主に1980年代の肖像彫刻で構成される「1章:私はあゆむ、私はつくりだす」と、《遅い振り子》や《山を包む私》など肖像彫刻に変化が現れた時期の作品から成る「2章:私は存在する」に充てられている。2階のサロンミューゼと特別陳列室では、スフィンクスをテーマにした彫刻などを展観する「3章:私の中に私はみつける」、彫刻作品のためのデッサンや言葉の抜き書き、イラストなどを紹介する「4章:私は思う」、作家の家族による作品を展示する「5章:私の中をながれるもの」、玩具を紹介する「6章:私ははぐくむ」の6章で構成。各章は、彫刻やデッサンについては時代順に、その他の展示物についてはジャンル別に、展示するための一応の目安となってはいるが、少なくとも展示に関してはそれほど厳密に区別されているわけではない。

《夏のシャワー》(1985)は、夏のプールの光景を思い出す作家の肖像。シャツにネクタイを締めた上からセーターを着込んでいる姿で表されているのは、プールのことを思い出すことが多い季節に合わされているからという。目は、何をも見据えてはいない。古語の「ながむ」という動詞を表すかのように、その場にない情景を思い浮かべながら虚空をぼんやりと見やっている。

《山を包む私》(2000)は、胴体を山のように、首を塔とその台座のように表し、塔の上に頭が乗っている。左肩が隆起し、頭がそちら側にやや傾けられている。山に包まれた経験をもとに山を象る時、そのイメージは作者の中にある。山に囲まれた作者(山>作者)が山をイメージして(山<作者)、山と一体化した肖像(山=作者)を生み出している。左肩の隆起が表す山と背比べをして、台座でもって山より高い位置に頭を設置しているような面白さもある。

《言葉をつかむ手》(2004)は裸体の女性の背後、左肩のあたりから別の腕が伸びる。その手はごく軽く曲げられてはいるが、何かを摑んだようには表されていない。女性の姿は、言葉として表したい感情であろうか。その感情を捉えようと繰り出される手は、常に空を摑むばかり。それでも、感情の僅か後ろで必死に手を伸ばし続けるようだ。

《戦争をみるスフィンクスⅡ》(2006)は、怒張した男根のような太く異様に長い首を持ち、胸に豊かな乳房を備えたスフィンクスの像。獅子としての性格は頭部から両肩に向かって左右に垂らされた革によって代替されているのだろうか。目は笑っていないにも拘わらず歯を見せる口には明確に笑みが表されているのが異様さを強めている。人と獣、男性と女性、悲しみと笑いといったような対となる要素の同時存在は、タイトルに掲げられた戦争(=死)に対して生を強く喚起させる。メメント・モリの表現であろう。

2階の特別陳列室の壁に貼り出されていた、作家が気になった言葉を記したカードが興味深い。