可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 諏訪未知個展『3つの世界』

展覧会『諏訪未知「3つの世界」』を鑑賞しての備忘録
KAYOKOYUKIにて、2020年12月23日~2021年1月31日。

諏訪未知の絵画を中心とした作品展。

《島》は、クリーム色がかった淡いオレンジ色の画面に、地形図の等高線で表された丘(山)を青緑、黄緑白、オレンジなどで塗ったような図像が縦横2つずつ、計4つ描かれた作品。熊谷守一の絵画を思わせるように単純化され、向きこそ異なるが全て同じものを表したようであり、いずれも4辺のうちの1辺が切断されたように描かれている。同じ対象を見るとしても、どこを見るのか、どこから見るのか、いつ見るのかなどで、得られるイメージは変わる。同一の主体でさえ同じ対象を同じように見ることは難しい、まして異なる主体間において共有できるイメージとは一体どの程度のものであろうか。
《天動説》は、中央に半畳を置く形の四畳半にも似た形に画面を塗り分け、四周を白い絵具が覆っている作品。中央の白い正方形を中心に周囲の長短4つの長方形が回転を感じさせるため、それ自体、大地(the earth=地球)=正方形の周囲で繰り広げられる天体の回転運動、すなわち天動説(天体が地球の周りを公転しているとの考え方)と解される。あるいは、四畳半を茶室の平面図と捉え、その周囲を囲う白い枠を躙り口と見立てることもできそうだ。

 (略)私は、にじり口が発想される有力なヒントは、芝居の木戸口ではなかったかと解している。にじり口が考案されてから普及するまで、さほど時間がからなかったらしい。ということは、当時、安土桃山時代の人々に、にじり口が容易に理解されるような、類似の構造物がほかにもあったのではないかと考えたからである。近世初期風俗画に描かれる芝居の入口は、一名鼠木戸と呼ばれたようにごく狭い入り口で、人々はここで大きく足をまたぎ背を丸めて這い入るようにして入場した。往来の日常的空間とは別個の劇的空間に入るためである。日常性が流れ込むのを防ぐ結界が鼠木戸であった。にじり口も古くは「くぐり」と呼ばれていた。非常に狭い口をくぐり抜けることは、洋の東西を問わず、異界への転移を意味していた。『不思議の国のアリス』はウサギの穴に落ちて異界の冒険が始まる。日本でいえば「鼠の浄土」の昔話がそれにあたる。陶淵明の「桃花源記」は洞穴が桃源郷の入り口となる。くぐり抜けた向こうは、茶室あるいは芝居という異質の空間であることをくぐりは暗示しているのである。(熊倉功夫・井上治『日本の伝統文化シリーズ5 茶と花』山川出版社/2020/p.76-78〔熊倉功夫〕)

躙り口の先に広がる異質の空間(=茶室)を宇宙と捉えると、宇宙がタブローに表されている以上、移設可能となり、やはり天動説の表現と解される。

《対岸》は、正方形の4辺にそれぞれ水色の円弧が表され、その他の部分は画面の中央から4つの角に向けて茶色で塗り込められている作品。署名が放射状に行われる傘連判状の署名者が対等な地位に立つように、全ての対岸(此岸)は此岸(対岸)である。

表題作《3つの世界》は黒い円盤の縁の4箇所に青、桃、白、茶の糸の束がそれぞれ結びつけられている。黒い円が宇宙を、青、桃、白、茶の糸束がそれぞれ青龍(東)、朱雀(南)、白虎(西)、玄武(北)という四神(四方)を表すとするなら、地上世界の方位と反転するこの円は地下世界からの視点を反映したものである。戸谷成雄の《地下の木Ⅱ》に表された「光の肛門」よろしく、地下(=死者)の世界からの視線を獲得する装置として機能しているのだ。視点は常に揺らぎ続けている。その動きは生そのものである。視点が固定されるとは、死を意味する。だが、考えるためには、視点が固定されねばならない。死ななければならない。彼岸(対岸)からでなければ此岸を見る(=考える)ことはできないからだ。そこで、作者は、四方位(十字)を表す絵画作品《寝たふり―再演》を併せて呈示している。寝ることは死ぬことであり、死ぬふり(寝たふり)の繰り返し(再演)によって生を捉え直す思考を促すのだ。天体の運行を考えるのに、天球をイメージして見かけ上の動きを捉えるのは、説明概念としての「天動説」の利用である。絵画は、生(世界)と死(冥界)という捉えがたいものを捉えるためのイメージ(第三の世界)であり、やはり「天動説」として機能しているとも言えるのだ。