可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 伊藤彩個展『STORIES -collaboration with Essential Store-』

展覧会『伊藤彩展「STORIES -collaboration with Essential Store-」』を鑑賞しての備忘録
銀座蔦屋書店〔GINZA ATRIUM〕にて、2021年1月2日~11日。

白い壁面で囲われた会場には、動物のぬいぐるみ、文化人類学の標本、鉱物、数理模型、測定用品、塗装見本、現代彫刻などを思わせる得体の知れない雑多なオブジェが床や台座や棚や壁面に所狭しと並べられ、さながら「驚異の部屋(Wunderkammer)」の観を呈している。随所に展示されている鮮やかな色彩の絵画の中には、会場に置かれたオブジェの姿を発見できる。作者は、オブジェを配したジオラマを制作し、そこで撮影された写真に基づき描く「フォトドローイング」という手法で制作しているという。なお、今回、「フォトドローイング」のモティーフに採用されているのは、アンティークショップ「Essential Store」が扱う品々だという。都市という浜辺に日々打ち上げられるモノ。アンティークショップのオーナー(田上拓哉)がビーチコーミングするように買い付けて回っているのだろうか。
"STORIES"がモノ・語り(=物語)であるなら、作家の制作するジオラマとはオブジェに当て書きした舞台である。そして、写真を撮影した上でさらに絵画というメディアに変換する工程を挟むのは、言葉を発することのないオブジェに語らせるための仕掛けなのかもしれない。
 ところが、作者は「制作するにあたって常に『無意味』であることを大切にしてい」るという。意味を生み出す"STORIES"をタイトルに冠することと、作家の無意味の追求との間にはいかなる関係が存在するのか。
 改めて会場を見渡してみる。「驚異の部屋」然とした空間は、都市に漂着したモノたちによって埋め尽くされた、ある種の「夢の島」と言えるのではなかろうか。

 日野〔引用者註:都市小説などで知られる日野啓三。以下同じ。〕が恐れたものは、人間化された環境における意味の充溢である。環境を人間の行動のために整備することは、一定の意図や目的の下に環境を飼い慣らすことである。そうして自己を飼い慣らすことである。日野が嫌ったのは、牧歌的自然と都会に充満する人間的な意味である。それゆえに、日野は、都市に見いだされる廃墟に、勝手に成長し崩壊していく建築物たちに、大量に破棄されたゴミの山にこそ、人間的な意味から解放されて「宇宙にまで開かれた気分」〔引用者補記:日野啓三『都市という新しい自然』読売新聞社、1988年〕を感じるのである。
 日野はたまたま訪れた東京の夢の島で、絶対的なものとの邂逅を果たす。各地から廃棄物が集まり埋め立てられていくゴミの集積地で、交換価値も、使用価値も、美的価値さえ失った、意味も名前もない廃物たちの圧倒的な実在感を日野はこう感嘆する。

 

 そんな信じ難いほど多種類の品物が、すでに商品価値も、使用価値も、磨きあげられた形も色も失い、名前さえも消えかけて、単なる廃物、物体そのものとして、明るい空間に一面に剥き出しになっているのだった。互いに全く無関係に、何の脈絡も、水面を埋めるという以上に何の意味もなく。
 だがその迫力は何と圧倒的だったろう。これほどの、荒涼と濃密な実在感を、こんなに骨身にこたえるほど感じたことがあったろうか、とさえ思いながら、私はその散乱し積み重なる廃物の中に一種茫然と、一種陶然と、ただ立ち尽くしていた……。(日野啓三『都市という新しい自然』読売新聞社、1988年、11頁)

 

 あらゆる意味を失ったゴミが、広大な砂漠と岩だらけの山脈と宇宙の果ての光景と重なって見えるのは、それらが、人間からの意味づけを退け、人間の目的に奉仕させられず、人間の意図のもとに制御できず、飼い慣らすことができず、ときに野獣のようにコミュニケーションすらできないからである。もともと人間の目的と意図をもとに作られた人工物は、うち捨てられることによって、それまでの文脈や関連が剥離し、かえって物の存在の本来の無意味さをはっきりと表現するようになる。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014年/p.137-138)

 

 また、作者が、常に「フォトドローイング」のモティーフ(オブジェ)を狩り(求め)、あるいは、ジオラマの中に身を潜めてシャッターチャンスを狙う「狩猟者」であるとの観点から、「無意味」をとらえることもできるのではないか。

 (略)狩猟者は、人びととの関係性を離れ、異種の動物と始原的生活のなかで交感する。狩猟者は獲物を模倣し、獲物と命を交換する。狩りとはひとつしかない命をやりとりする行為であるがゆえに、他の人間と交換がきかない生のあり方である。狩猟者は、自然の中の命の循環の中で、自分をひとつの命として鋭く自覚する。対象である獲物も、狩猟者である私もたったひとつの意味しか担わない。それゆえん、意味はないに等しく、私も動物もただ存在しているだけなのである。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014年/p.96)

 とっておきのもの(=STORES)の中に、「私(=I)」すなわち「作者(="I"toaya)」が入り込むとき、"STOR-I-ES"が姿を現す。