可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 シャルロット・デュマ個展『ベゾアール(結石)』

展覧会『シャルロット・デュマ展「ベゾアール(結石)」』を鑑賞しての備忘録
銀座メゾンエルメス フォーラムにて、2020年8月27日~12月29日。

少女ゆずと彼女の愛馬うららを軸に与那国島の風物を描く《潮》、馬の衣装を身につけた少女アイヴィが与那国島へと向かうロード・ムーヴィー《依代》、兵士の棺を運ぶ埋葬式に従事する軍馬の入眠をとらえた《アニマ》の3点の映像作品を中心に、映像作品や馬に纏わる写真や資料を併せて紹介する、シャルロット・デュマの個展。

半透明のガラスのブロックで構成された壁面を持つ会場の吹き抜けの空間に、キッタユウコによる濃淡や長さを異にする琉球藍の染め物が36枚吊り下げられている。微かに揺れる青い布の中にモニターがあり、与那国島を舞台に少女ゆずと愛馬うららを主人公とした映像作品《潮》が流されている。海岸でうららに跨がるゆずや、あたかも馬たちの島であるかのように野生の馬たちがのびのびとする姿が映し出される。モニターの手前には緩やかな弧を描きながら次第に高くなる白木のベンチが設置されている。

友人から贈られた小さな象牙の根付は瓢簞をかたどっており、その上部に馬の像が取り付けられていた。これは中国の不死身の道士で、愛馬を瓢簞水筒に入れて持ち運んでいた張果老仙人の物語を描いたものである。瓢簞にふうと息をふきかけるだけで愛馬が疾風のように現れ、仙人を乗せて運んでくれる。この奇譚に触発されて他の例を探してみたところ、版画やドローイング、刀や陶器の装飾に至るまでさまざまな表現が見つかった。日本では全く予期せぬ、もっと言えば、信じがたいことさえ起こることを「瓢簞から駒」と言う。この話に私は思わず膝を打った。今なら苦もなく理解できる。与那国島で出会った風の中に挑むように立つ馬たちはまさしく瓢簞から飛び出してきたのだと。(シャルロット・デュマ「瓢簞」同『馬とオブジェに導かれて シャルロットデュマによる散文』より)

瓢簞という「壺中の天」を抜け出してきた奔馬のイメージを白木のベンチが具現化している。ベゾアール(結石)という奇妙な展覧会のタイトルも「瓢簞から駒」を介することで明らかになる。

結石は動物の胃の中に形成される凝固物、言わば石のことである。時として博物館や骨董店で見つかるものは、通常反芻動物や有蹄類といった大型動物の胃腸を切り拓き、摘出されたものである。結石は乾燥した不毛な地に生息する草食動物に特有のものである。石混じりの土壌を歩き回って草を食むので、小石や小枝を飲み込んでしまう。胃の中に一旦ひっかかると、そこが基質になってカルシウムを含む化合物が沈着する。動物が水を摂取できないと、消化機能が滞り、結石は急速に成長する。沙漠の地、中東の古い伝承は結石をヘビに噛まれた歯科の涙の結晶であるとし、石ができた原因を水分の欠乏と毒性物質の摂取の双方に結び付けた。遊牧民の間では結石を柳の小枝と一緒に水に沈めれば雨乞いができ、小さな袋に入れて馬の尾に結わえ付ければ風を吹かせることができると信じられていた。


パリにある獣医学博物館には、こうした石の数々が所蔵されており、その多くは馬の胃から取り出されたものであるという。その内のいくつかは驚愕的な大きさで、サイズはサッカーボール並みで、重量は鉄球と鎖の拘束具のように思い。私は痛感させられた。水が生命の維持にとっていかに大切であるかを。水は滋養であると同時に過剰であれば脅威にもなる。また水の欠乏はどんな生物にとっても危険であることは原則なのだ。思うに、結石とは水分の不足、すなわち死に直結しているのだろう。その証拠にパリで目にした結石は大きく、その重さに耐え、生き延びた馬はいない。結石は神秘的なオーラを放っている。その表面は惑星にも似てそれ故、動物の腹の中からやって来たようにも思われる。これは、石を抱えていた動物が命懸けでこしらえた生涯の作品であり、抵抗の証でもある。命とはかくも無常であることを、想起せざるを得ない。(シャルロット・デュマ「結石」同『馬とオブジェに導かれて シャルロットデュマによる散文』より)

 

瓢簞の中には俗世界と隔絶した別世界が広がっており馬がそこから姿を表すのと同様、馬の体内に広がる小宇宙からは惑星の似姿となる結石が生まれるのだ。入れ籠のアナロジーが示されている。

例えば、家畜に人の姿を映す鏡を見ること。頻発する家畜感染症と、パンデミックとは類比されるべきものであろう。昨年末、数年前に鶏卵大手の代表だった者が当時の農林水産大臣に現金を提供していたと報じられた。「アニマルウェルフェア」の国際基準の緩和を狙った政治工作であったという。動物の福祉を蔑ろにすることは、人間の福祉をなおざりにすることである。この汚職事件が新型コロナウィルス感染症が猖獗を極める中で明らかになったことを単なる偶然で片付けることはできまい。

会場はエレヴェーターで大きく二つに分かれている。もう一つの空間には、白木の板でできた壁が緩やかなカーヴを描いてガラスブロック(ソニー通り側)へ貼り出している。顔の部分だけがのぞく馬の衣装を纏った少女アイヴィがオランダから与那国島へと向かう旅程を描く《依代》に関連した写真が壁面に飾られている。壁を回り込むと、微妙な傾斜がありカーヴを描くベンチが設けられていて、その先でプロジェクターで投影された《依代》を視聴できるようになっている。アイヴィは多様な風景の中を様々な交通機関を乗り継いで渡っていく。それでも、かつて世界の旅路で活躍した馬に乗ることはない。その代わり、「馬」が旅をする。馬との出会いを求めて。アイヴィが神社で相対した白い神馬は、箱の中に売られた土産物の馬の土鈴のように狭い囲いの中にいた。旅の終わりに、夕暮れの与那国島で、アイヴィが丘に憩う馬たちに出会う。アイヴィが馬にそっと手を触れる。アイヴィは「馬」から馬になるだろう。「鬼ごっこ」で子が鬼に変わるように、人と馬とも入れ替わり可能なのだから。

 見ることが人間にとって特別なのは、人間はなぜか、見ている対象にやすやすと自己同一化することができるからである。このことはたとえば野球観戦ひとつに明らかである。数千人の観衆が投手と打者の一挙一投足に瞬間的にどよめくのは、観衆が投手や打者に同一化しているからにほかならない。相撲を観戦して手に汗握るのもそうだ。舞台芸術にいたっては、観客を引き込んで自身に同一化させる役者や踊り手こそが名人なのである。芝居小屋を出て役者の仕草を真似、声色を真似る客が多ければ、それは成功した芝居なのだ。
 (略)
 相手の身になることができるということの帰結のひとつは、人は誰にでも何にでも成り替わることができるということである。動物にも植物にも成り替わることができる。(略)
 (略)
 だが、ここで登場するさらに重要な帰結は、相手の身になることができるようになるのとまったく同じ瞬間に、人は、相手と自分の双方を眺めうる視点を獲得するようにもなるのだということである。それがなければ入れ替われないのだ。
 つまり、世界を俯瞰する視点である。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018年/p.75-77)

古の工人が細部まで忠実に馬や馬具を象った南山下遺跡の馬形埴輪や忍ヶ丘駅前遺跡の子馬形埴輪が《潮》の展示空間と《依代》の展示空間とに展示されている。これらは墳墓に関連した遺物であり、上階の展示の予兆のように展示されている。上階では、暗がりに、斃れたかのような横倒しの馬の写真《砂にうずまる馬/今治》、死そのものを表す馬の頭骨や馬に死をもたらしたであろう馬の結石が並べられた先に、兵士の埋葬式に参加する軍馬が眠りに落ちる過程をとらえた映像作品《アニマ》が上映されている。厩舎の闇の中で静かに眠りが訪れるのを待つ馬と、照明を落とした展示室の隅で画面を見つめる鑑賞者とが、緩やかに流れる時間の中で入れ替わっていく。眠りとは死のメタファーであるが、実際、眠りのたびに生命は死に近づいていく。死を偽装する眠りによって、ベゾアールのように形象化したアニマ(anima)(生命)の姿を幻視する。