可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 ルイザ・ランブリ個展

展覧会『ルイザ・ランブリ』を鑑賞しての備忘録
ギャラリー小柳にて、2021年1月15日~3月19日。

ルイザ・ランブリの写真展。いずれも無題の作品7点で構成される。3点はスペインのガリシア近代美術センターで、1点はアメリカ合衆国のメニルハウスで、1点が(妹島和世の設計で知られる)「梅林の家」で、2点が金沢21世紀美術館(パトリック・ブランの《緑の橋》がモティーフ)で撮影されている。

ガリシア近代美術センターで撮影された3点の写真には、美術館であることを示すものは写っていない。はっきり写っているのは、大理石のパネル(?)が張られた床のみで、画面の下部3分の1ほどを占めている。意図的な露出オーバーのためか、現地の強い日差しが差し込むためか、正面に壁が立っていることさえ判然としない。とりわけ画面の右手は、強い光のために靄がかかるように霞んでいる。3点の写真の違いは、床に張られたパネルの交線の位置がわずかに異なる点(カメラの位置の違い?)のみに窺える。3点中2点は同じ壁面に掛けられており、その壁面に対して直角に立つギャラリーのガラスの壁面にはスモークフィルムが貼られているため、淡い外光が入ってくる。作品の設置された壁面に向かって右から差し込む光によって、作品の内部と作品の外部とが「相似」をなしている。
メニルハウスで撮影された写真は、似たようなドアが複数並ぶ部屋の角をとらえたもの。光の加減かもともと塗り分けられているのかグレーから青みがかったものまでドアは色合いを微妙に異にする。また、把手の位置が右にあるドアと左にあるドアとがある。閉じられたドアとともにわずかに開いたドアもある。開かれたドアから覗く闇には、いかにも異界に通じるような感覚を覚える。この作品は、SFの世界へと誘う異化効果を生んでいる。

 開いた窓の向こうには陽光も警官も子どももなかった。何もなかった。そこにはただ形のない灰色の霧が、まるで生まれたばかりの生命のように、ゆっくりと脈打っていた。霧の向こうに街は見えなかったが、それは霧が濃かったからではなく、からっぽだったからだ。なんの音も聞こえず、なんの動きも見えなかった。
 霧は窓枠と溶け合って車の中に入ってきそうになった。ランドルは「窓を閉めろ!」と叫んだ。妻はその通りにしようとしたが、手が痺れて感覚がなくなっていた。ランドルは手をのばし、自分で把手を回し、ぎゅっとかたく窓を閉めた。
 明るい後景が戻ってきた。ガラス越しに、警官、嬌声をあげて遊んでいる子どもたち、歩道、そしてその向こうにはニューヨークの街が見えた。シンシアは夫の腕に手をおいた。「車を出して、テディ!」
 「ちょと待て」ランドルは身体を強張らせたまま、脇の窓のほうを向いた。そして用心しながら窓ガラスを下げた。ほんのわずか、ほんの数ミリだけ。
 それで充分だった。外には形のない灰色の流動体があった。ガラスの向こうには明るい道路や行き交う車がはっきり見えたが、窓の隙間から見ると、そこには何もなかった。

 

 この「まるで生まれたばかりの生命のように、ゆっくりと脈打って」いる「形のない灰色の霧」こそ、ラカンのいう〈現実界〉、おぞましいほどの生命力をもった前象徴的な実体の脈動にほかならない。だが、ここでわれわれにとって重要なのは、その〈現実解〉が噴出してくる場所である。〈現実界〉は、外部と内部とを隔てている境界線(この場合は窓ガラスがそれを具現化している)そのものから噴出してくるのである。ここで、不一致をめぐる基本的な現象学的体験に触れておくべきだろう。車に乗ったことのある人なら誰でも経験があるはずの、内部と外部との不均衡のことである。外からは車は小さく見える。身をかがめて中に乗り込むとき、われわれは時おり閉所恐怖症に襲われるが、いったん中に入ってしまうと、車は突然大きくなり、快適に感じられる。だがこの快適さと引き換えに「内部」と「外部」との連続性がいっさい失われる。車の中にいる人にとって、外の現実は、ガラスが物質化しているバリアーあるいはスクリーンの向こう側にあるものとして、かすかに遠く感じられる。われわれは外的現実、つまり車の外の世界を、「もう一つの現実」として、つまり、車の中の現実とは直接的に連続していない、現実のもう一つの様相として、知覚する。この非連続性をよく物語っているのが、ふいに車窓を開け、外にある物がいきなり近くに感じあれたときに味わう、外的現実が迫ってきたような不安感である。なぜ不安になるかといえば、窓ガラスが一種の保護膜として、安全な距離に保っていたものが、じつはすぐ近くにあるのだということをいきなり思い知らされるからである。だが、車の中にいて、窓を閉め切っているときには、外にある物は、いわばもう一つの様相へと転換されている。それらは根本的に「非現実的」に見える。いわばそれらの物の現実性が宙ぶらりんにされ、カッコに括られているように見える。早い話が、窓ガラスというスクリーンに投射された映画の中の現実みたいに見える。内部と外部を隔てる仕切り壁をめぐるこの現象学的体験、つまり外部は究極的には「虚構」であるという感覚が、ハインラインの小説〔引用者註:「ジョナサン・ホーグの不愉快な職業」)の最後の場面のぞっとするような効果を生んでいるのである。一瞬、外的現実の「投射」の機能がストップして、われわれは形のない灰色のもの、スクリーンの空無性と直面したような感覚を味わう。(スラヴォイ・ジジェク鈴木晶訳〕『斜めから見る 大衆文化を通してラカン理論へ』青土社/1995年/p.38-p.40)

ガリシア近代美術センターの空間に立ち現れる靄のような光は、小説「ジョナサン・ホーグの不愉快な職業」における「窓枠と溶け合って車の中に入ってきそうになった」「霧」が実際に現実世界に入り込んできたかのようだ。但し、「スクリーンの空無性と直面したような感覚を味わう」のではなく、逆に「虚構」であると思われた「霧」が実は現実であったと思い知らされるのである。フェイクが動かしていく現実に戦慄する日々が表現されているものと作品を受け取らざるを得ないのだ。