可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『天国にちがいない』

映画『天国にちがいない』を鑑賞しての備忘録
2019年製作のフランス・カタール・ドイツ・カナダ・トルコ・パレスチナ合作映画。102分。
監督・脚本は、エリア・スレイマン(Elia Suleiman)。
撮影は、ソフィアン・エル・ファニ(Sofian El Fani)。
編集は、ベロニク・ランジュ(Véronique Lange)。
原題は、"It Must Be Heaven"。

 

復活祭の礼拝が行われる教会。聖堂の扉の前の通路には多数の人々が蝋燭を手に集っている。人々が賛美歌を歌う中、通路の奥から、復活祭の祭服を身につけた司祭(Nael Kanj)が、十字架などを持った侍者を引き連れてゆっくりと歩いてくる。扉の前に辿り着いた司祭が扉を叩く。だが扉が開かない。開けるように小声で指示するが、やはり開かない。聖堂の中の人物が司祭に向かって開けるつもりはないと宣言する。司祭は冠などを脱ぐと今歩いてきた通路を一人戻り、聖堂の別の入り口を蹴破る。聖堂内から、男が殴られている音と悲鳴が聞こえてくる。扉が開き、人々は聖堂内へと入っていく。
ナザレ。映画監督のES(Elia Suleiman)は、夜、自宅前で煙草を一服している。昼間、自宅の鉢植えに水をやり、教会の鐘と合っていない置き時計の針を合わせる。テラスで腰掛けてお茶を飲んでいると、庭のレモンの木に男(Kareem Ghneim)が攀じ登り、大きなレモンを捥いでいた。お隣さんよ、泥棒じゃないぞ。ドアを叩いたが応答が無かったんだ。ESが近所を歩いていると、後ろの方が何やら騒々しい。振り返ると、手に拳銃や棒を持った若者が集まっている。彼らはESの脇を猛スピードで駆け抜けていくと四叉路で三手に別れて行動する。夜、ESがレストランで一人酒を飲んでいる。真向かいのテーブルには、女性(Yasmine Haj)が料理を前に座り、二人の男(Ali Suliman、Faris Muqabaa)があたかもESを睨みつけるようにグラスを傾けている。一人が手を挙げ、ウェイター(George Khleifi)を呼ぶ。料理の酸味が強すぎると妹が言っている。ワインソースのせいでしょう。妹に酒を飲ませたのか。ワイン漬けの鶏肉を出しただけです。ウェイターはカウンターに下がるとボトルを手に戻って来る。二人の男のグラスに酒を注ぐと、ボトルを置く。酒代は結構です。別の日、ESが街へ出ようとしたところを、猟銃を担いだ老人(Tarik Kopty)に呼び止められる。狩りをしていたらな、上空を旋回していたワシが、蜷局を巻いたヘビに向かって急降下してきてな。そこを間一髪、ワシを撃ち落としてな。ヘビはな頭を垂れると去って行ってな。しばらくしてな、タイヤがパンクして立ち往生したときにな、あのときのヘビが現れてな。タイヤに近寄ると息を吹き込んで去って行ったな。焚火をするからな、呑みに来な。ESが街に出てカフェのオープンテラスでワインを飲んでくつろいでいる。近くの宴席にはボトルを持った男(Jack Deek)が座っている。辺りには沢山のハトが集まっている。警官二人(Subhi Hussari、Amar Zidani)が通りがかりの男から双眼鏡を受け取る。ボトルを持った男が立ち小便をして、ボトルを投げつけるのを双眼鏡で見ている。男が立ち去ると、警官たちもバイクに乗って走り去る。夜、雨が降る中ESが傘を差して家に向かうと、門のそばでヘビを助けたと語っていた老人が雨に打たれるままに佇んでいた。小便が止まらなくてな。ESは老人を傘にさしかけると、老人の家に向かい、一緒に歩いて行くのだった。

 

映画監督のES(Elia Suleiman)の地元での生活と、企画を売り込もうと向かったパリやニューヨークで遭遇した出来事とを描く。様々な人々との出会い、あるいは目撃した出来事から成る短いエピソードが積み重ねられることで映画は展開する。冒頭の教会のシーン(盲目的に従う人々の存在が恐ろしい)や「隣人」のエピソードを通じて観客に「パレスチナ問題」を暗示する。パリの街路のランウェイ、噴水の周りでの椅子取りゲームなど、エピソードに重ねられた意味へと鑑賞者は思いを巡らせることになる。とりわけ移動(ベドウィンの女性、電動一輪車の警官)や警官に纏わるエピソードが多い。
セントラル・パークの「天使」(Raia Haidar)に対し、目隠しされて連れ去られる少女(Marah Khamis)は「正義の女神」を表すのであろうか。警官が後を追う、パリの地下鉄の女性(Isabelle Tréhet)は、オルガ・トカルチュク(Olga Tokarczuk)の『逃亡派(Bieguni)』を思い出させた。
ES=映画監督は眼であり、常に目撃している。だが、ES=映画監督もまた目撃されている。見ることと見られることとの関係、あるいはどのように見るかがどのように見られるかを決する構造が示されるようだ。例えば、絵画においてそのような構造を読み取ったものとして、下記の記事がある(とりわけ、最後の3文を参照)。

(略)確かに波響〔引用者註:蠣崎波響〕は〔引用者補記:クナシリ・メナシの戦いで松前藩に協力したアイヌの酋長ら12人を描いた《夷酋列像》において〕アイヌの容貌や身体を精細に描くのだが、彼が十二人すべてを実見したわけではなく、盛装などに虚構が仕組まれているのを割り引いたとしても、およそ共感を欠いた肖像に見える。洋風の陰影を施した顔、多くの体毛に覆われた手足の描写の細かさは、着衣の錦や器物のそれと変わらない無機質な感じを持つ。右の展覧会〔引用者註:国立民族学博物館他で開催された「夷酋列像」展〕にも出品されていたが、「夷酋列像」からは松浦史料博物館所蔵のものなど数点の模本が作られ、模倣作も現れた。それは今橋理子『江戸の花鳥画』(講談社学術文庫、2017年)が論じたような、大名たちの間で写生図を模写し合う行為を思い起こさせる。交換され共有された珍禽奇獣のイメージを見るのと同室のまなざしが、アイヌに向けられているのだ。「夷酋列像」の下絵と考えられる墨画函館市中央図書館など)ではまだ人間の表情らしく描かれていたのに、完成画では三白眼に表され、画に向き合う人との交流を拒むような疑い深い目つきに仕上げられている。その眼は、実際にはアイヌではなく和人のものだったに違いない。(佐藤康宏「日本美術史不案内140:眼が眼を映す」『UP』2021年1月号〔第50巻第1号〕p.139-140)

ESはこの作品の監督であり、なおかつES=映画監督として主演する役者でもある。そこには「離見の見」のメタファーがある。