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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 ちぇんしげ個展『《壽桃》壽桃』

展覧会『ちぇんしげ展「《壽桃》壽桃(ももまんじゅうももヲことぶク)」』を鑑賞しての備忘録
ガーディアン・ガーデンにて、2021年1月26日~2月20日

第22回グラフィック「1_WALL」グランプリを獲得したちぇんしげの個展。

展覧会のタイトルに登場する壽桃とは、桃の形を模した饅頭である。作者はその餡が小豆であることに着目する。肉まんの餡に肉が入っているように、壽桃の餡には桃の果肉が入っていて然るべきではないか、と。そこで、作家は、壽桃の餡を小豆から桃の果肉へと詰め替える。壽桃=桃饅頭を桃まんとすることで外形と中身とを一致させてみせるのだ。高松次郎が「この七つの文字」と言葉と文字との一致を呈示することで、かえって普段用いている言葉と文字との間のズレを視覚化したことを思い起こさせなくもない。滑稽にも映るパフォーマンスを通じて伝えるのは、日常的に用いている言葉の吟味か、あるいは言葉による現実の改変か。

(略)いずれにせよ、ショーペンハウアーと同様にクラウスが深刻な問題を見て取っていたのは、人々が「自分の文章」や「自分の意見」と思って語っている言葉が、多くの場合、実は他人が繰り返している常套句のさらなる反復に過ぎない、という点である。自分が用いようとしている言葉に思いを凝らし、吟味して選び取るというのは、人に課せられている最も重要な責任だが、現状は最も軽視されてしまっていると、クラウスは継承を鳴らし続けた。その彼の問題式が凝縮した叙述を引用しておこう。1921年6月に『炬火』に掲載された論考の一節である。

 他人が書いたものに目を開くとまではいかないにしても、せめて自分の言葉に耳を澄ますようにさせ、それと知らずに日々口にしている諸々の意味を追体験してもらうことができるなら、人間にとって益するところが大きいだろう。慣用表現の活性化、日常の交わりで使う決まり文句の鮮度を高めること、かつては意味をもっていたのに今では物言わなくなった言葉の身元確認、それらを人間に教えることは有益だろう。……根源に近づけば近づくほど、戦争から遠ざかるのだ。もしも人類が常套句をもたなければ、人類に武器は無用になるだろうに。誰しも自分の話す言葉に耳を傾け、自分の言葉について思いを凝らし始めなければならない。そうすれば、すべての失われたものが蘇るだろう。(カール・クラウス〔武田昌一・佐藤康彦・木下康光訳〕『カール・クラウス著作集7・8 言葉』法政大学出版局、1993年、379-380)

 (略)
 オーウェルによれば、政治の言葉の特徴とは、論点をぼやかす曖昧で婉曲な言い回し、物事を名指しつつ、それに対応するイメージを喚起させないことを狙った決まり文句である。そのような言葉は、苛烈な現実をオブラートに包んで曇らせ、人々の感受性や想像力を麻痺させる。いや、それだけではない。「政治の言葉は、保守党員からアナーキストまで様々な違いはあるものの、どれも、嘘を本当と思わせ、殺人を立派なものに見せかけ、空虚なものを実質の備わったものに見せようという意図をもっている」(ジョージ・オーウェル工藤昭雄訳〕「政治と英語」川端康雄編『オーウェル評論集2 水晶の精神』、平凡社ライブラリー、1995年、33)
 (略)
 クラウスの慧眼は、オーウェルと同様の分析を、ヒトラーが政権を握る遙か前に提示していることにある。粗雑な政治の言葉が行き交い、常套句が氾濫し、言葉が本当にヴェールと化していく社会を見つめながら、彼は、人々が自分の話す言葉に耳を傾け、自分の言葉について思いを凝らし始めることに、戦争から遠ざかる一縷の望みを確かにつないでいた。だからこそ彼は、しっくりくる言葉を探すよう努めるという、一見すると些細で個人的なこだわりに過ぎないかに思える営為を、「行われるべきこととしては最も重要な責任でありながら、現に行われていることとしては最も安易な責任」と呼んだのである。(古田徹也『言葉の魂の哲学』講談社講談社選書メチエ〕/2018年/p.204-210)

 

会場に数多く置かれたプラスティック製の同型の赤い椅子が、「決まり文句」や「常套句」の氾濫を示唆するとも解される。安易に椅子に腰掛けることなく、「自分の言葉について思いを凝ら」すよう促されているのかもしれない。

会場には、「祝 桃の不在万万歳」との横断幕が掲げられている。不老不死を実現する桃(西王母の管理する蟠桃園の桃)が存在するなら、長寿を言祝ぐ必要はない。桃が存在しないからこそ、長寿が祝うべきものとなるのだ。『ド○ゴンクエスト』のプレイヤーキャラクターが無敵なら、ゲームとしての楽しみはどれほど減じるだろう。同様に、言葉が意思や気持ちを完全に伝えることができるなら、他者と意思疎通する価値が失われてしまうのではないだろうか。作家の生み出した桃源郷を彷徨いながら、絵画やオブジェに籠められたメッセージに思いを巡らせることこそ、本展の喜びであろう。