可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 小瀬真由子個展

展覧会『project N 81 小瀬真由子』を鑑賞しての備忘録
東京オペラシティ アートギャラリー〔4Fコリドール〕にて、2021年1月16日~3月21日。

小瀬真由子の絵画14点を紹介する企画。

作者は、網点、網目、格子、縞、紐といったモティーフを繰り返し作品に登場させる。例えば、網点は、《火遊び》(空)、《青い犬》(海?)、《プレイルーム》(ヘビ)、《カムフラージュ》(ヘビ)に表されている。古い新聞や雑誌などのモノクロームの写真などに特徴的な網点は、あたかもイメージを網点の呪力によって印刷物に縛り付けているようだ。籠目(六芒星)や縄文などの様に、文様の持つ力でモティーフを作品に封じ込める狙いが作者にはあるのかもしれない。また、それゆえに、ほとんど全ての人物表現に用いられている黒色などによる「塗りつぶし」は、耳なし芳一を不可視にした経文のようなものが施されているのではないかと想像を逞しくさせるのだ。

《硝子の目》では、ヒョウ柄の衣装を纏った人物が右手で摘まんだ群青の模様の入ったビー玉を眼窩の高さに持ち上げている。その人物の背後には衣装と同じ生地で切り出されたような豹の姿が表され、その顔の位置に人物の手にするビー玉と両眼を成すようにもう一つのビー玉が置かれている。《ビー玉》には、両手それぞれに黄と赤の模様の入ったビー玉を眼窩の位置に掲げる人物が描かれている。ビー玉は眼球を表すものとされている。すると、《プレイルーム》において、二人の人物が膝を崩して腰を下ろしている床に転がるビー玉は、眼球を失うように盲目的に遊び(白いヘビとの戯れ)に没頭している様を描くのであろうか。《記録的な獲物》で白いヘビを摑まえて高く掲げる人物など、多くの作品に登場する人物に目は表されていないため(《取引》では、二人の人物に目が表されない一方、一人が手で摑む小さな白いヘビには目が表されている)、状況を顧みることなく(我を忘れて)何かに夢中になっている様を描くのかもしれない。また、《火遊び》では、地面に置かれた白い紙に目が描かれており、その傍に立つ少年達が火を点けようとしている。第三者(外部)の視点を排除する閉鎖的な(あるいは幼稚な)社会に対する揶揄であろうか。

《ヘビ狩り》は、右から左へと極緩やかに上昇する段差の低い階段を、いずれも同じ黄色いワンピースを纏う4人(やや中性的に表されているが女性と解して差し支えなかろう)が白い大蛇を抱えて登っていく場面が描かれている。黒く塗り込められた上に黒い影が重ねられた人物の姿と白く太い身をくねらせるヘビ、背景となる壁の鮮やかな赤と何故かヘビの一部(3箇所)を覆っている緑の金網フェンス、ワンピースの黄色と壁紙(?)の赤、それぞれの対比が鮮烈な作品。ヘビが男根を表すなら、ヘビを抱える4人に影が重ねられているのは、男根のピストン運動の表現ということになる。破れた金網フェンスは破瓜のメタファーだ。4人が進む通路は膣(壁紙のデザインは膣壁に基づくのであろう)であり、奥には子宮口が控えているのだろう。前から3番目の人物がシャボン玉を飛ばすのは、膣液(愛液)(あるいは、赤血球=血液)であり、ヘビから溢れるビー玉は4人の足元を滑らせるように転がっており、尿道球腺液であることは疑いない。先頭の人物が嗅覚(顔の先端の鼻が目立つ?)、二番目の人物が聴覚(左手が耳に触れる位置にある)、三番目の人物が味覚(シャボン玉を吹いている口)、4番目の人物が視覚(《硝子の目》や《ビー玉》で示される通り、目を表すガラス玉を右手で摘まんでいる)をそれぞれ表す。全員がヘビに手を触れていることで触覚は表されていることは論を俟たない。セックスに対して五感全てを動員する能動的な姿勢が示されている。タイトルの通り、ヘビは狩られるのである。その実、4人(の女性たち)が抱える白蛇はなよなよと身をくねらせて涙を流すように描かれている。男性器が女性器に侵入するのではない。女性器が男性器を包摂するのだ。

《蝶の会議》は、巨大な満月が夜空に浮かぶ中、緑色の金網フェンスの前で魚類図鑑を手に話し込む3人の人物を描く。3人の人物(やや中性的に表されているがおそらく女性)は黒で表され、いずれもやや褪せたカーマインのワンピースを身につけている。3人の前には9頭の山吹色の蝶が飛び交っている。金網フェンスは「ネット」を、黒く塗りつぶされた人物は匿名(性)を表し、真夜中のネットに集ってやり取りする匿名の人々を描くのだろう。魚類図鑑の魚(fish)は、疑わしい(fishy)情報の信憑性を議論しているのかもしれない。会議は懐疑に通じるからだ。そして、煌々と輝く月は、人々が狂気(lunatic)へと駆り立てられることを示す。さらに、蝶は「胡蝶の夢」のメタファーであろう。但し、夢と現実ではなく、ネットと現実とが截然とは区別できないことを訴えている。