展覧会『望月通陽展』を鑑賞しての備忘録
ギャラリー椿にて、2021年2月6日~20日。
筒描技法による染織作品を中心とした望月通陽の個展。
《同じ笑顔に》では、黄土色の地に、防染糊を絞った点々がつくる輪郭線の中にごく淡い紺の濃淡で、しがみつく子供を座って抱きかかえる母親が図案化されている。母子の顔は、二人で共有するかのように、1つだけ描かれている。子供が母親の顔を見つめ、あるいは頬で母親の顔に密着するように、また、母が子供の顔に頬ずりしているように。
つまり、母が、たとえば子の頬の歪みを模倣し、模倣そのものが快楽であることを知って、子にさらに模倣を促すようになった瞬間、子の頬の歪みが微笑という意味へと転じるということである、いうまでもなく、ここで重要なのは、子の頬の歪みは意識したものでも意図したものでもない、いわば偶然に生じたものにすぎないということだ。だが、それが母によって模倣された瞬間、少なくとも母の側には微笑として意識されたのである。母が子にその反復を促すのは、自身が意識したそのことを子にも意識させようとすることなのだ。そしてそれが子にも意識されるようになるということは、両者の立場が入れ替え可能であることが意識されることと同じことなのである。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』講談社/2018年/p.113)
《かさなる星》も母子像である。夜空のような深い紺色の地と母子を表す黄土色とが防染糊を絞った点々で区切ることで表されている。座った母親が子供を抱きかかえ、二人とも正面を見つめている。その二人の顔が重なり、母親の左目と子供の右目が同じ1つの眼を共有している。ここで眼は星に擬えられている。それは天で瞬き母子の姿を浮かび上がらせる。天高くから二人を俯瞰する。
子は、母から見られた自分が自分であることを受け入れることによって自己になるわけだが、この自己を自己とする眼は――はじめは手がかりとして母の眼の位置にあるにせよ――そのとき中空にあるとでもいうほかない。そしてじつは、この中空にあって俯瞰している眼のほうが自己なるものにほかならないのだ。だからこそ自己にとっては自己の身体があたかも外部から与えられたもののように見えてしまうのである。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』講談社/2018年/p.113-114)
本展のメインヴィジュアルに採用されている《ひぐらし》も母子像である、地は黒に近い藍色に染め抜かれ、座った母親(他の母親像と異なり、乳房の表現もある)の太腿の上に立っている子供を手で支えている図が表されている。上に位置する母親の顔と下に位置する子供の頭部がわずかに重なり、二つの眼の列がやや位置を違えて平行している。ひぐらしの音に耳を澄ませながら、二人とも音の方向を眺めているようである。
さて、日本の感性表現には浮世絵に限らず、しばしば平行共視の構図をとることがある。たとえば小津安二郎の映画もそうである。彼の作品には親子に限らず、同僚や夫婦も横に並んで同じ方向を見ている構図がしばしば現れる。横に並ぶということは、どちらが優位に立つということではない。横に並んでいると、相手の目を見て真偽を確かめるということもできない。といって、「言葉」で確認することもせず、寡黙にただ、同じ方向を見ている人々の姿がスクリーンに映しだされる。そのとき、私たちは彼らの「心」もまた、姿と同様、同じ方向を向いているはずだと確信し、温かなつながりに共感を覚える。他者も同じものを見て、同じように感じ考えているはずだという思い込み、(略)(三浦佳世「視線の構造」北山修編『共視論 母子像の心理学』講談社(選書メチエ)/2005年/p.155-156)
母子像であり、子供は母親に守られているという関係があるが、その分、強く「同じ方向を向いているはずだと確信し、温かなつながりに共感を覚える」ことになる。だが、子供が自らの脚で立っていること、母親と子供との眼の向きがわずかに違えられている点に、子供の「巣立ち」の表現も印象づけられるのである。闇夜を示すような暗い地の色は親子関係のある一時期の終演を告げるヒグラシの鳴き声である。
ないものを共に眺めるという点に関しては、喜多川歌麿の「風流七小町 雨乞」も同様である。この絵では、母に抱かれた男児が母とともに傘にあいた穴を見ている。たしかに、「指月布袋」〔引用者註:仙厓作〕とちがって、二人に見えている対象は描かれているのだが、しかし、それが「穴」だとすれば、本来、「ないもの」を見ているということになる。
意識の対象にのぼらないものを「地」と考えるなら、穴はほんらい、「地」としての存在である。しかし、その存在に気づき、それに意識を向けたとたん、穴は「図」に変わる。画中の母子は穴に気づいて、その穴自体、あるいは穴があいて役目をなさない傘を見て楽しんでいるのだろう。しかし、つぎの瞬間、二人は穴を通して見える向こう側の世界に気づくことになる。穴の向こうに広がる世界に関心が移ったとたん、穴は、あるいは穴を含めた傘は、ふたたび「地」に落ちる。見る者の意識の移動に伴い、二人の見ているものはつぎつぎと意味を変え、時間軸の上で紡ぎだされる「物語」へと見る者を誘う。
いや、二人の見ているものはすでに穴ではなく、穴の向こうの「現れては消える」もうひとつの現実なのかもしれない。母は子のたしかな重さを実感しんがら、子は母のぬくもりに安心感を抱きながら、傘にあいた穴を通して、小窓の向こうに広がる外の世界を見るように、あるいはスクリーンに映し出されるもうひとつの世界を見るように、母と子の閉じられた関係の外側で展開される第三者の世界、この絵に不在である父親の象徴している現実世界を共に眺め、楽しんでいるのかもしれない。母と子による不在の共有。
精神分析学者の北山〔引用者註:北山修〕は、浮世絵に描かれた母子の多くが「はかなく消えゆく」もの、あるいは、つぎの瞬間、「立ち去りゆく」ものを共に見ていることが多いことに注目している。
消え去りゆくものを仲介につながっている母子関係は、対象が消え去り、立ち去ったとき、その絆を失う。自分を守ってくれる母の「傘」のなかで、「破れ目」の向こうに展開されている光景に気づき、それに目を奪われた幼児は、いつしか母のもとを離れ、あちら側の世界へと踏み出すことになるのだろう。
北山が指摘するように、母と子の見ているはかない共視対象は彼らの関係を「切り結ぶ」ものであり、共視の構図は子供の巣立ちとそれに対する母の幻滅を象徴しているのだとすれば、歌麿の母子が傘の穴を通して見た「現れては消える」光景もまた、二人をひとときつなぐ物語であり、図と地の反転のなかでその物語をときに見せ、ときに隠す傘の割れ目は、二人を切り結ぶ装置なのであろう。母は腕のなかの子どもにいおずれは訪れる旅立ちを予感し、幼児をつなぎ止めようと腕に少し力を入れるかもしれない。(三浦佳世「視線の構造」北山修編『共視論 母子像の心理学』講談社(選書メチエ)/2005年/p.132-134)
遠くの波の音に耳を澄ませる母子を描く《海が聞こえる》、耳に手を当てて音に注意を払う人物を描く《音のつぼみ》など、角笛を捧げ持つ牧神を描く《深い霧》など音に纏わる作品も目立つ。とりわけ、《夕べの音》では、夕刻を表す臙脂の背景に、ギターを抱え爪弾く人物を描いているが、その人物の顔が90度傾けられることで、ギターの弦がつくる縦の線と相俟って、過去(下方向)へ耳を澄ませるイメージを作り上げている。
鳩を抱えて座る人物を描いた《受けとめた空》、二人が重なり合って口を共有する《こどものこだま》、など、シンプルな描線によって抽象化されたイメージに広がりを持たせるタイトルも、染織の色味同様に味わい深い。