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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『海を渡った古伊万里―ウィーン、ロースドルフ城の悲劇―』

展覧会『海を渡った古伊万里―ウィーン、ロースドルフ城の悲劇―』を鑑賞しての備忘録
大倉集古館にて、2020年11月3日~2021年3月21日。※当初会期を変更。

ウィーン近郊のロースドルフ城の城主ピアッティ家の陶磁器コレクションは、1945年にソ連軍兵士によって破壊されたが、陶磁器片は廃棄されることなく保存・展示されてきた。本展では、古伊万里を中心とする修復品(繭山浩司とその工房スタッフによる)や磁器片が展覧に供されている。また、佐賀県立九州陶磁文化館の所蔵品により、古伊万里の歴史が併せて紹介されている。

冒頭では、ロースドルフ城のコレクションから、亀甲繋文様の透かし彫りが目を引く《色絵唐獅子牡丹文亀甲透文瓶》[066]や、花々の中に和服の女性が描かれた《色絵花卉美人文盆器》[162]の部分修復品をもって、展覧会の導入としている。
1階展示室は、「第Ⅰ部:日本磁器の誕生、そして発展」と銘打って、古伊万里の歴史を概観する(計56点)。「染付磁器」のコーナーでは、朝鮮人陶工の技術により磁器生産が可能となった1610年代の作品として、《染付山水唐草文輪花大皿》[007]など7点が並ぶ。続いて、明清交代期に来日した中国人陶工による1640~50年代の技術革新により現れた作品が紹介される。「色絵磁器の誕生」のコーナーでは《色絵樹鳥波文大皿》[011]など5点、「食のうつわ」のコーナーでは型成形による《色絵椿文変形小皿》[017]など6点、「鍋島磁器のデザイン」のコーナーでは大倉集古館所蔵の《青磁染付宝尽文大皿》[020]も含む献上品として制作された鍋島焼7点が展示されている。貿易のあり方の変化(長崎貿易の制限により有田磁器の輸出が私貿易中心となり体積当たりの関税などが廃止された)に伴い大型の器が生産・輸出された17世紀後半の作品として、「柿右衛門様式」のコーナーでは《色絵花鳥文角瓶》[043]など6点、「宮殿を彩った花瓶と壺」のコーナーでは《色絵梅菊文大壺》[028]など2点、「華やかな皿」のコーナーでは金襴手の大皿《色絵桜鷹菊唐草文大皿》[037]など5点、「瀟洒な器たち」のコーナーでは喫茶のための《色絵草花文碗皿》[052]など7点が紹介されている。その後、18世紀中葉に至ると、清との価格競争に敗れ、オランダがアジア貿易の主役の座をイギリスに奪われ、ヨーロッパで磁器生産が開始される(ドイツのマイセン窯など)という3つの要因が重なり、磁器輸出が途絶する。幕末に至って復活した磁器輸出を紹介するのが「幕末、明治初期の輸出品」のコーナーで、1867年のパリ万博に出品した有田の田代家の製品[060-063]や、フィラデルフィア万博に向けて設立された合本組織香蘭社の製品[064-065]など9点が展示されている。
2階展示室は、ピアッティ家の陶磁器コレクションの修復品や陶磁器片を紹介する「第Ⅱ部 ウィーン、ロースドルフ城の陶磁コレクション」(計100点)の会場である。ピアッティ家はヴェネツィア出身の貿易商で、ドレスデンザクセン宮廷に陶磁器を販売していたという。18世紀中葉、7年戦争での活躍をきっかけにザクセン宮廷で重用され、ドレスデンに定住。19世紀前半には子孫がロースドルフ城を獲得した。陶磁器片から、ピアッティ家の陶磁器コレクションのピークは17世紀末~18世紀中頃と考えられるという。2階展示室の中央には、「陶片の間」の再現コーナーが設けられ、組み上げ修復された《四代元素・地》[165]や《白磁大壺》[164]を中心に、五彩・色絵花卉文碗皿他の破片群が並べられている。展示ケースでは、古伊万里(有田窯)、景徳鎮窯、ウィーン窯、マイセン窯などの陶磁器の破片、修復品(組み上げや部分修復も含む)が展示されている。例えば、ロースドルフ城の見込み部分のみの《色絵花鳥文輪違い透かし皿》[113]は、かつてあったはずの口縁部の透かし彫り文様を想像できるよう、完品の《染付人物文輪繋形鉢》[114]や《色絵花鳥文輪違い透かし鉢》[115]と併せて並べられている。古伊万里金襴手を模倣した景徳鎮窯の「チャイニーズイマリ」《五彩花卉文皿》(修復品)[091]、マイセン窯の「クロス剣」のマークに二重線(消去線)が入れられた「アウトレット」(払い下げを受けた民間の絵付け師が絵付けを加えたもの)《色絵花卉文碗》(部分修復)[134]《色絵花卉文碗皿》(組み上げ修復)[135]なども興味深い。