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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『電線絵画展 小林清親から山口晃まで』

展覧会『電線絵画展 小林清親から山口晃まで』を鑑賞しての備忘録
練馬区立美術館にて、2021年2月28日~4月18日。※一部作品の入れ替えあり。

電線、電柱をモティーフとした絵画を特集した展覧会(企画:加藤陽介)。

プロローグと12章とで構成。3階の展示室3では、導入として、最古の「電線絵画」である樋畑翁輔《ペリー献上電信機実験当時の写生画》(1854)を紹介した上で、電信線・電信柱をモティーフとした作品を集め、小林清親の錦絵を中心とする「第1章:晴れやか 誇り高き電信柱」(資料や参考作品含む23点。5点入れ替え予定)、電柱・電線を描いた錦絵などを展観する「第2章:晴れやか 誇り高き電柱―電気の光」(10点。1点は期間限定)、富士とともに電信線を描いた作品を並べる「第3章:富士には電信柱もよく似合ふ。」(6点)、岸田劉生と電線を主題に据えた「第4章:切通しと電柱―東京の増殖」(6点)、関東大震災を機に面目を一新する前後の帝都を描いた作品を集めた「第5章:帝都 架線の時代」(14点。1点は入れ替え、1点は巻き替え予定)の途中までを展示。3階の展示室2では、第5章の続きから始まり、「新版画」が捉えた東京を中心とする「第6章:伝統と電柱―新しい都市景観」(11点。1点は入れ替え予定)、災害や戦争の記録を扱う「第7章:災害と戦争―切れた電線、繫ぐ電信線」(7点。1点は入れ替え予定)、「大東京」と呼ばれた東京15区に隣接地域を描いた作品を紹介する「第8章:東京の拡大―西へ西へ武蔵野へ」(参考作品を含む7点)、「電線風景」を冠した作品を描いた朝井閑右衛門と、東京の風俗考証も行った木村荘八を特集する「第9章:“ミスター電線風景”朝井閑右衛門と、木村荘八の東京」(17点。2点は入れ替え予定)を展示。2階展示室1では、碍子の実物を紹介する「第10章:碍子の造形」(13点。1点は入れ替え予定)、戦後の東京を描いた作品を展観する「第11章:電柱 現実とイメージ」(参考資料含む17点)、現在活躍する作家の「電線絵画」を紹介する「第12章:新・電線風景」(参考作品含む9点)。

【プロローグ:日本最古の電線絵画】
樋畑翁輔《ペリー献上電信機実験当時の写生画》(1854)[001]は、横浜の港で行われた電信実験の様子を俯瞰で描いた作品。沖合に停泊する船舶の存在が、電信が海を渡ってやって来たことを伝える。おそらく街道の松並木に沿って張られた陣幕からのぞく馬印(?)の列が、やがて日本に張り巡らされる電信柱を予兆する。

【第1章:晴れやか 誇り高き電信柱】
1869年、横浜~築地間に電信線路が完成し、公衆電信が始まった。
小林清親《東京五大橋之一両国真景》(1876)[002]は、1875年に掛け替えられた両国橋を、水平線を低く空を広くとって、パノラマのように描く。北斎の《富嶽三十六景 江都駿河町三井見世略図》などに見られる富士を跨ぐ線の役割が、ここでは電信線によって担わされている。《富嶽三十六景 登戸浦》の鳥居の見立と捉えることもできそうである。鳥居と電信柱は、小林清親《三囲神社》(1903)[012]にも見られる。
小林清親《高輪牛町朧月景》(1879)[003]は、2020年末に出土した高輪築堤の往時の姿を描いたもの。電信線は鉄道に沿って引かれた。
河鍋暁斎《電信柱》(明治前期)[017]は、電信柱を細長い十字で、碍子を点で、電線を斜めの直線で電線を表した墨絵。碍子の姿は《枯木寒鴉図》の烏の向こうを張る。

【第2章:晴れやか 誇り高き電柱―電気の光】
1887年、日本橋茅場町に最初の発電所が設置され、架空電線による電気供給が始まった。
小林幾英《新よし原仲之町満花の図》(1889)[030]は植樹された満開の桜並木に並んで赤い街灯が立っている。皇居を中心とする4つの電燈局から離れた千束の第五電燈局は吉原遊郭と浅草奥山のために設置された。
三代歌川国貞《凌雲閣機絵双六》(1890)[031]は、1890年開業予定の浅草凌雲閣(日本初の電動エレベーターが設置された)の展望台を上る絵双六。
山田みのる《浅草の裏》(1911)[035]は築地塀とその先の家並みの奥に浅草凌雲閣の一部を切り取ったもの。築地塀に囲まれた空き地のような場所には草が生い茂り、細い木がひょろりと背を伸ばしている。草木と人工物(築地塀、家屋、電信柱、凌雲閣)、寂れた姿と歓楽街。作者には、都市の繁栄の虚飾が見えていたのか、あるいは一回り後に訪れるであろう大惨事の予兆を描き出したのか。
秦テルヲ《煙突》(1911)[038]は、赤レンガの建物と煙突が青空に映える、一見すると朗らかな印象の作品。レンガ造の建物が明るく淡く描かれているのに対して、電信柱や電信線は緻密に描かれている。大きな煙突の下を歩む3人の女性たちがモノトーンで表されているのは、華やかな世界を支える労働者という日陰の存在を訴えるのだろうか。

【第3章:富士には電信柱もよく似合ふ。】
小林清親《従箱根山中冨嶽眺望》(1880)[039]は正面に富士山を望む景観の左手に電信柱の姿を表す。その原画となったスケッチ[040]に比べると、富士山より電信柱を高く描こうとしている意図が明瞭となる。電信線が富士の上を通る形になっているのは、小林清親《東京五大橋之一両国真景》(1876)[002]と共通である。
田淵保《今市図》(1911)[044]は日光街道など複数の街道が交わる要衝・今市宿の景観。年を経た重厚な杉の並木に挑むような明るい肌を持つ電信柱が描かれている。五姓田義松《旧東海道馬入茅ケ崎間左富士》(1905)[042]や小林清親《三囲神社》(1903)[012]など鳥居と電信柱のイメージに晒されているうち、鳥居を重ね合わせた電信柱に神域への連なりを想像してしまう。

【第4章:切通しと電柱―東京の増殖】
岸田劉生の代表作の一つ《道路と土手と塀(切通之写生)》(1915)(パネルで図像を紹介)には、手前に電柱の黒い影が描き込まれている。岸田劉生《門と草と道》(1916)[047]は同じ場所を別の角度から描いたものらしい。画面中央を横切る塀の中央にある門、左脇に生えている草、目の前に広がる道。右手に力強い姿を見せている電柱をタイトルに組み込んでいない点に本展企画者は特別な思いを指摘していたのが興味深い。岸田劉生の《窓外夏景》(1921)[048]は、鵠沼海岸への転居後に自宅からの眺めを描いたもの。画面の上半分に青い夏空を、下半分に家並みや緑を描くが、電柱群は青空へと突き出している。電柱に巨人の姿が重ね合わされる。もし電柱が巨人であるなら、代々木の姿を変えてしまう場に巨人が居合わせるのも至極当然であろう。代々木から代田橋(「ダイダラボッチ」に由来)は(巨人の)目と鼻の先である。

【第5章:帝都 架線の時代】
山脇信徳《雨の夕》(1908)[051]はニコライ堂のドームや尖塔を遠くに臨む通りの雨の景色を描いている。路面電車と電線が走る通りを傘を差した人々が往き来する。傘と電柱とはともに依代なのではないか。川瀬巴水《東京十二景「新大橋」》(1926)[060]、川瀬巴水《東京十二景 月嶌の雪》(1935)[075]、朝井閑右衛門《東京十二景之内》(1935)[064]などと合わせて見て、想像を逞しくする。
小絲源太郎《屋根の都》(1911)[055]は上野の路面電車の走る通りを見下ろす構図。密集する家が画面奥(浅草方面)へと続き、家並みが大波となり、全てを飲み込んでしまうようである(凌雲閣は飲み込まれたのか姿を見せない)。それとともに、画面手前に張り巡らされた電線が人々を搦め捕りもするのである。

【第6章:伝統と電柱―新しい都市景観】
神坂松濤《暮れゆく街道》(1922)[067]は、背後に山が迫った商家の並ぶ峠道と行き交う人々を描く。荷車を引いて上がる人の折り曲げられた姿に坂道のキツい傾斜が窺える。道沿いに走る鉄路に沿う電信柱も、恰も荷車を押す人と同じように傾いている。電信柱は人に擬態あるいは同期している。伊東深水《夜の池之端》(1921)[070]の電柱は芸者に、川瀬巴水《東京十二景 月嶌の雪》(1935)[075]は雪道を行く人に、十亀広太郎《東京上野広小路松坂屋附近》(1923)[080]は焼け跡に立つ人に、それぞれ擬態・同期しているのだ。
近藤浩一路《十三夜》(1936)[068]は通りの正面に聳える法観寺五重塔を描く。低い位置から見上げるように描かれる通りには画面奥に向かって線が描き込まれ、その線を辿ると奥に向かう人物の後ろ姿がある。そのすぐ先に女性が立ち、街灯が光り、電柱が立ち、尖塔を天に向ける五重塔が立つ。このように視線を上げていくことで、鑑賞者は、五重塔を発射台にして、星々の輝く夜空に打ち上げられるのである。

【第7章:災害と戦争―切れた電線、繫ぐ電信線】
田豊四郎《スンゲパタニに於ける軍通信隊の活躍》(1944)[085]は、電信線に上って電線を繫いでいく兵士の姿が軽業師の妙技のように描かれ、素早い敷設作業を伝えている。

【第8章:東京の拡大―西へ西へ武蔵野へ】
坂本繁二郎《三月頃の牧場》(1915)[087]は雑司ヶ谷の住宅街にある牧場に佇む牛3頭を描いている。佐伯祐三《下落合風景》(1926)[090]は立体交差を描いている。両作品とも過去に見ているが、電柱や電線が描き込まれていることが記憶に残っていなかった(総務大臣に「記憶がないと言え」と言われた訳ではない)。

【第9章:“ミスター電線風景”朝井閑右衛門と、木村荘八の東京】
朝井閑右衛門の《電線風景》と題された作品が6点まとめて紹介されている。とりわけ朝井閑右衛門《電線風景》(1950頃)[094]は、電柱と太い電線が画面を縦横無尽に走って空間を埋め尽くす様子が激しい筆致で描き込まれ、画面凸凹になっている。電気によって支配された社会を激しく告発するかのようだ。

【第10章:碍子の造形】
玉村方久斗《碍子と驟雨(紅蜀葵)》(1943)[111]は風神図を下敷きにした作品。展示替えにより、対の雷神図となる玉村方久斗《碍子と驟雨(梧桐)》(1943)[112]も展示予定。
松風陶器合資会社の玉がいし(1925)[116]はおそらく彫刻展に並べて違和感がないだろう。

【第11章:電柱 現実とイメージ】
池田龍雄アメリカ兵、子供、バラック》(1953)[125]は、車でバラックに乗り付けた米兵の相手をしている間、(おそらく自分の)子供を外で遊ばせている女性を描いた作品。確かに画面の奥に電柱が描かれているが、この作品の主題のインパクトに目を眩まされることなく電柱の存在によく気が付いたものだと感心させられた。広畑憲《風景》(1935)[131]の画面に溶け込む電柱を見つけるのもほとんどパズルと言えよう。ちなみに、さらに難度が高いのは、次章で紹介されている、木製の古い電柱の一部を撮影した益村千鶴《Pillar》(2013)[141]である。

【第12章:新・電線風景】
山口晃の漫画『趣都』「電柱でござる!(前編・後編)」の原画(2018)[140]を読むと、電柱の愛で方が分かる。
坂本トクロウ《呼吸(電線)》(2012)[144]は淡い水色の画面に7本の線を斜めに配する。線の配置(画面の分割)が絶妙なミニマルな作品だが、「呼吸」というタイトルも想像力を働かさせる。

かつて見た朝井閑右衛門の電線の作品は印象に残っていたが、岸田劉生佐伯祐三坂本繁二郎池田龍雄らの作品に描き込まれた電信柱・電信線・電柱・電線は特段記憶に残っていなかった。この展覧会を見る者は、以後、電柱(電信線)や電線(電信線)のモティーフに目を奪われずに遣り過ごすことができるだろうか。恐るべき「伝染美術館 ファイナル・エクスポジション」である。