可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 竹内公太個展『Parallel, Body, Possession』

展覧会『竹内公太「Parallel, Body, Possession」』を鑑賞しての備忘録
SNOW Contemporaryにて、2021年3月19日~4月17日。

竹内公太の過去10年の活動を、ドローイングや写真など24件の資料で振り返る企画。

《四ツ倉の洞穴》は、洞穴の中に存在した穴(!)から、洞穴の入口へ向けてシャッターを切った写真。穴に入るために用いられた梯子と外に広がる景色が暗い空間の奥に円形に切り取られている。洞穴は「暗い部屋(camera obscura)」であり、写真機(camera)のアナロジーである。作品制作のために写真や映像を撮影してきた作家自らが記録装置として機能していることを思えば、《四ツ倉の洞穴》は作家の自画像と言えよう。
エノラ・ゲイでのセルフィー》は、スミソニアン航空宇宙博物館で撮影した、広島に原爆を投下した爆撃機の写真。作家は、正面から見た爆撃機に目玉の存在を捉えたという(本展と同時期に無人島プロダクションで開催されている八谷和彦の個展「秋水とM-02J」の冒頭には、B-29の正面が輝く目玉であるとの評価が首肯される写真が展示されている)。カメラ(≒レンズ)である作家が、爆撃機のコックピットという目玉(≒レンズ)に対峙したのだ。それは反射(reflection)であり、作家が自らを省み(reflect)たのだろう。これを証するかのように、作家の思考の跡をたどることのできるドローイング群(木製のテーブルで展示)の中に、反射や反転といった言葉が散見される。
カメラでありレンズである作家は、視覚偏重に対して反省する態度を示す。《東京電力福島第一原発スケッチ02》では、会場から1Fを眺める機会を得た作家が写真を撮影するのではなく、敢えて「手を動かして」スケッチしたもの。対象を目にしたときの感覚を表現するのに「手描き」は適しているという。《Re:手の目のためのドローイング》では、シリコンで型取りした掌にLEDを仕込んで装着し、手から発せられる光が照らし出した光景を描写している。妖怪「手の目」のように、手で対象を捉えているのだ。現下のコロナ禍において接触が忌避される事態は、視覚偏重社会のデフォルメないしカリカチュアのようでもある。作家は、炭鉱(坑=穴)のカナリアとして、コロナ禍前から触覚の危機を察知し、触覚の回復の必要を訴えていたのではないか。危機を先んじて捉える能力は、ドローイング群の中にある、竹箒の柄にビデオカメラを取り付けたイメージにも表れている。竹箒が掃くことで進む消去をカメラが同時進行で記録するアイデアは、公文書破棄問題の予兆であった。
風船爆弾跡地でのセルフィー》は、アジア・太平洋戦争末期、日本がアメリカに向けて飛ばした風船爆弾をテーマとした《盲目の爆弾、コウモリの方法》という映像作品の関連作品。風船爆弾が「盲目」(=無差別攻撃)であるがゆえに、風船爆弾を飛ばした者たちに落下・炸裂したという事実を踏まえ、カメラを取り付けて飛ばした風船が落下する際にカメラが撮影した写真から成る。視覚を偏重することだけでなく、視覚を無視することもまた危険であることは論を俟たない。なお、作家は探知できない形をとる「ステルス化」にも注目している(ドローイング群参照)。見えなくされていることを捉えて見せる「対ステルス」的作品の御目見得が期待される。