本 川端康雄『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌』(岩波新書新赤版1837/岩波書店/2020年)を読了しての備忘録
目次
はじめに
第1章 植民地生まれの奨学金少年 1903-1921
インド生まれのイギリス人/セント・死ぷりアン校での学校生活/「あの楽しかりし日々」/愛国少年エリック/バディコム家の子どもたち/イートン校の奨学生
第2章 イギリス帝国の警察官 1922-1927
採用試験/キプリングとともに/船旅の思い出/植民地統治者の不安/帝国主義を憎む/ビルマでの「二重思考』/読書と創作/「スエズの西へ」
第3章 パリとロンドンで落ちぶれる 1927-1934
成功の悪徳・失敗の美徳/一杯の紅茶の「洗礼」/パリに暮らす/パリの入院生活/作家の手習い、困窮/『パリ・ロンドン放浪記』の出版へ/ケントでホップ摘み/「ジョージ・オーウェル」の命名/『ビルマの日々』の刊行/『ビルマの日々』の「美文調」
第4章 葉蘭とディーセントな暮らし 1934-1936
『牧師の娘』の刊行/「愛書家コーナー」/葉蘭を受け入れる/アイリーンとの出会い、婚約
第5章 北イングランドへの旅 1936
ゴランツからの依頼/炭坑の地下にもぐる/ファシストとコミュニストの演説/田舎暮らしを始める/田舎の結婚式/「象を撃つ」の執筆/『ウィガン波止場への道』、レフト・ブック・クラブ選書に/社会主義者による社会主義批判/「ウィガン波止場」という冗談
第6章 スペインの経験 1936-1937
革命下のバルセロナへ/不発弾とバター付きトースト/バルセロナの変貌/喉を撃ち抜かれれる/スペイン脱出/弾圧への怒り/ディーセンシー(人間らしさ)への信念
第7章 ファシズムに抗って 1937-1939
スペイン経験を書く/療養生活/マラケシュへ/『空気をもとめて』/父を看取る/第二次世界大戦と『鯨の腹のなかで』/ディケンズの「顔」/「少年週刊誌」
第8章 空襲(ブリッツ)下のロンドンで生きのびる 1939-1945
大戦初期/戦時下のロンドンへ、義兄の死/『ライオンと一角獣』と「愛国心」の力/BBC勤務/文芸番組/戦況ニュース解説/鶴見俊輔が聴いたオーウェルのラジオ放送/『トリビューン』と「気の向くままに」/『動物農場』の執筆/『動物農場』の出版社探し/ディストピアの言語学
第9章 北の孤島にて 1945-1947
アイリーンの死/養子を迎える/家庭生活/ふたたび大陸へ/リチャードの養育と「新しい小説」/『批評論集』と(民衆)文化研究/アーサー・ケストラー論と「宗教的な態度」/島に住む/ロンドンの辛い冬
第10章 『一九八四年』と早すぎた晩年 1947-1949
バーンヒルにもどる/コリーヴレッカンの大渦巻/結核治療と『一九八四年』の完成『一九八四年』の刊行/「隠れ共産党員・同調者リスト」の問題/『一九八四年』出版直後の評価――冷戦初期の受容/「ニュースピーク」の実現(不)可能性
終章 1949-1950
「ガンディーを想う」/チャーチル『最良の時』/サナトリウムの見舞客/ロンドン大学病院への転院/ソニア・ブラウネルとの再婚/死と葬儀
ジョージ・オーウェル略年譜
あとがき
人名索引/主要文献/図版出典一覧
ジョージ・オーウェルことエリック・アーサー・ブレアの伝記。原則として時系列に沿って叙述され、写真の紹介も比較的豊富。作品の言及には引用がある他、主要な小説作品についてはあらすじの紹介もあるため(小説第1作『ビルマの日々』[第2章/p.31]、小説第2作『牧師の娘』[第4章/p.73]、小説第3作『葉蘭をそよがせよ』[第4章/p.77]、『空気を求めて』[第7章/p.145]、『動物農場』[第8章/p.185]、『一九八四年』[第10章/p.225])、オーウェル作品未読でも問題ない。もっとも、『一九八四年』を読んでいると、作家の体験が作品の随所に反映されていることがよく分かるだろう(体罰[第1章p.8-11]、二重思考[第2章/p.36-39]、人工言語[第3章/p.53-55、第8章/p.183-184、第10章/p.236-238]、庶民讃歌[第4章/p.80-83、第6章/p.111-112,128-132]、宣伝と検閲[第8章/p.170-172]、全体主義[第9章/p.201-202, p.207-208]など)。
下層階級の暮らしに飛び込んだり[第3章/p.51-56]、採炭作業を実地検分してみたり[第5章/p.91-92]との現場主義は、内戦下のスペインに赴いて民兵組織に入るという決断でも貫かれ、喉を撃ち抜かれたり、危うく共和国政府に捕縛されるという状況にも陥った[第6章/p.110-125]。後年、ジュラ島での生活の際には、海難事故にも遭っている[第10章/p.217-218]。
警察官の職を辞し、実家を離れた当時のオーウェルの文章は不器用なものだったららしい[第3章/p.50]。
オーウェルには書店員の経験がある(第4章/p.75-76)
上層中流階級出身であったため、インド帝国警察官[第2章]を辞めて作家になることは、両親の重んじる体面を害することになる。とりわけ貧民の暮らしのルポルタージュである『パリ・ロンドン放浪記』にはその懸念があったため、匿名の出版を望み、「ジョージ・オーウェル」という筆名を用いることとなった[第3章/p.63-64]。
それがわれわれの教わったことだ――下層階級は臭い。そして明らかにここに越えがたい障壁がある。好悪の感情のなかで身体に関わる感情にもまして根源的なものは他にないからである。人種上の憎悪、宗教上の憎悪、教育や気質や知性の相違、あるいは道徳律の相違でさえも、克服しうる。だが身体にしみこんだ嫌悪感はそうはいかない。(『ウィガン波止場への道』第8章)
オーウェルは貧民街に飛び込んで生活する(第3章)など、幼少年期に植え付けられた労働者階級への偏見から脱却する努力を重ねていた。格差を象徴する「臭い」の問題は、映画『パラサイト 半地下の家族』(2019)でも扱われていた。
サブタイトルに「『人間らしさ』への讃歌」とあるように、オーウェルの庶民のまっとうさへの眼差しに焦点が合わされる。
あのなかの下層中流階級の人びと、レースのカーテンの背後で、子どもをもち、がらくたの家具と葉蘭とともにいる彼らは、金の掟によって生きている、それはまあたしかだ。けれども、おのれのディーセンシー(まっとうさ)を保つことをしおおせているのだ。彼らが解釈する金の掟とは、単なる冷笑的なものだとか豚のごとく不潔なものではない。彼らには彼らなりの基準がある、侵すべからざる道義心がある。彼らは「品位を保っ」ている――葉蘭をそよがせているのだ。それに、彼らは生きている。人生のしがらみにとらわれている。彼らはこどもをもうけるが、それは聖人だとか、魂の救済者だとかが、どうあってもけっして果たさぬことなのだ。(『葉蘭をそよがせよ』第11章)
『葉蘭をそよがせよ(Keep the Aspidistra Flying)』という題は、慣用句の"Keep the flag flying"をもじった「庶民讃歌」を表すもので、「『凡俗』と言われようが『コモン・ディーセンシー(庶民に備わるまっとうな感覚』を手放さずに『しぶとく生きつづけよ』というメッセージ」が籠められているという[第4章/p.81-83]。
オーウェルが、チャールズ・ディケンズについて、「ディケンズの社会批判はもっぱら『コモン・ディーセンシー(庶民の品位)』に基づく道義的な批判であり、それが作家として成功した所以であるとオーウェルはいう。社会批判をおこなったディケンズの急進主義的な姿勢は漠然としているものの、それが確固として存在することが見てとれる。その社会のどこが問題なのか、ディケンズは的確な分析ができているわけではないのだが、問題があるということを感情的に把握できている。結局彼の主張は『ビヘイヴ・ディーセントリー(品位をもって振る舞え)』ということに尽きるのだが、それは見かけほど浅薄なものではない」と擁護しているのを引き合いに、その庶民に対する姿勢を明らかにする[第7章/p.151-153]。
ヴィクトリア朝期に創刊され1930年代まで存続した少年向けの廉価な週刊誌を「少年期に多くの男子児童が読みふけってきた」ため広範な影響力を行使しているとして、「そこに埋め込まれたスノビズム、物欲、暴力性、保守主義、人種観、階級観、あるいは愛国心といったイデオロギーは検討する価値がある」として、文芸批評の対象に加え、文芸の世界を拡張している[第7章/p.153-154]。「行楽地で土産用に売られている艶笑小話を描いた『俗悪』な漫画絵葉書(その性質上成人男性向き)」の作者ドナルド・マッギルについてエッセイを物し、「『アート』なるものの価値転換を図る」のも同様の趣向である[第8章/p.163-164]。
『動物農場』は風刺的な動物寓話という「おとぎばなし」の形式を用いたがゆえに、「ソヴィエト神話」の暴露というオーウェルの当初の目的を越えて、読者の身近にありうるあらゆる政治権力の腐敗、堕落を撃つものとして、さまざまな状況で思い当たる、すぐれて普遍性をもつ読み物となっている。とりわけ悪しき政治権力と言語の不正使用との相関関係を問題にしている点は重要である。この点については、1946年のエッセイ「政治と英語」との関連が深い。この論考でオーウェルは「婉曲法と論点回避と、もうろうたる曖昧性」からなる現代政治の言葉を批判し、政治の堕落と言語の堕落が強く結び付いていると述べた。政治の革新に必要な第一歩は、直截簡明な言語によって明確に考えることだ。言語から改善すれば、政治をいくぶんかでも良くできるだろう。しかしその反対に、言語を、周到に、修復不可能と見えるまでに悪化させてしまった社会はどのようなものか。この問題が『動物農場』と『一九八四年』で追究されている重要なポイントである。(川端康雄『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌』岩波書店[岩波新書]/2020年/p.183-184)
オーウェルの作品が今、読まれるべき理由が、この部分からだけでも判然とする。
「文学の禁圧」(『ポレミック』1946年1月)は、全体主義体制のなかで文学的営為は可能か否かという問題を扱っている。「社会の支配層が全体主義かするのは、その構造がはだはだしく人為的になるとき、すなわち支配階級がその機能を失いながらも武力や欺瞞によってまんまと権力にしがみつくとき」であるとオーウェルは指摘する。「そのような社会は、どれだけ長続きしようとも、寛容な社会にも知的安定を得た社会にもなれない。事実を忠実に記録し、感情を誠実に述べることが文学創作には求められるのであるが、全体主義社会はそのいずれも許容できない」。じっさい、全体主義は「過去のたえざる改変」を、ひいては「客観的事実の存在そのものへの不信」を要求するだろう。『一九八四年』の重要な主題がここに論述されている。(川端康雄『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌』岩波書店[岩波新書]/2020年/p.201)