可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 五十嵐大地個展『gjallarhorn』

展覧会『五十嵐大地個展「gjallarhorn」』を鑑賞しての備忘録
biscuit galleryにて、2021年4月29日~5月16日。

五十嵐大地の絵画23点を紹介。

《Tilt Moon》は、コンクリートの打ちっぱなしの壁に接して置かれたコンクリート製のブロックの上に、それより小型のコンクリートのキューブが置かれ、キューブの手前右上の欠けた部分にリンゴが載っているイメージ。コンクリートを表す灰色で統一されたほぼモノクロームの画面は、コンクリートの台座の手前部分だけ、明るみを出すためか、わずかに黄色がかって表されている。左下の角に向かって画面が引っ張られて皺が寄り、表面に穴ができてしまったかのように描かれている。画面下部の左右の隅では画面が剥げ、画面右側では支持体から絵具の層がわずかにはみ出している。精緻な写実表現、とりわけコンクリートの材質感の描写には実物のような印象があり、一種のトロンプ・ルイユと言えそうだ。同時に、あくまでも絵画であることを、絵具の層を皮膜のように扱って見せることで訴えている。さらに、リンゴの梗窪が上を向かずに画面手前右手側に向けられているのは、リンゴを月に見立てて傾けて置くことで、タイトル"Tilt Moon"通りのイメージをつくるためだ。リンゴが月なら、画面(絵具層)は天球であり、天球こそ一種の騙し絵だろう。実際には月が傾くのではなく、地球が自転しているからである。白いシャツの上に置かれたイチゴジャムを塗ったトーストとバターナイフを描いた《Raw form》、木枠に張られているが留めらておらず、何も描かれていないキャンヴァスの上の2つのイチゴを描いた《Fruits on the ground》などの精緻な写実表現を行う作品群と、絵具を塗り重ねた層を引っ掻くことで内部を露出させ、絵画が物体であることを強調する「Dips in the sky」シリーズの作品群、さらに、半円形の面を持つコンクリートブロック(半月)を2つ描き、一方の輪郭を二重に描くことで水を描くことなく水面の像を表した枯山水とも評しうる「水鏡」シリーズの2点といった、本展に出品されている他の作品の性格を併せ持った作品と言える。
絵画がイメージそのものであるなら、デジタルデータに変換して閲覧すれば作品を鑑賞したことになる。だが、実際、絵画は単なるイメージではない。絵画を腑分けしてみせるような「Dips in the sky」シリーズなどで、作家は絵画を物質として呈示する。また、絵画がどんなに忠実に現実を写し取り「再現」しているように見えても、それは現実そのものではない。作家が《Fruits on the ground》に描く、キャンヴァスに置かれたイチゴとは、即ち「画餅」の呈示であった。だが、現実とは一体何であろう。人々が日々の生活のために得ている情報のほとんどは、ディスプレイや印刷物を介しているではないか。作家は「水鏡」シリーズによって、実物と、それが水面(=ディスプレイ)に映った像とを区別できているのかと、鑑賞者に問い掛けるようだ。

 (略)2017年1月20日、ほとんどの人間の予想を裏切って世界一の権力者の地位について世界中をアッと言わせたが、文化史などという何とも怪しげで頼りない分野をほとんど無手勝流で始めてしまった僕を、この一大不動産「プロジェクター」〔引用者註:ドナルド・トランプ〕が一番驚かせた、というか感心させたのは「ファクト」という世間で一番当り前の「観念」のほぼ400年忘れられて了っていたプロブレマタイズだった。「ファクト(fact)」と「フィクション(fiction)」が元々は同じ言葉から派生したものと知ると、何が「真」で何が「偽」か知れたものじゃないという話になる。だれがどう見ても正しいという有名メディアの報道記事をトランプ氏は自信満々、「フェイク」と言い募り、この人物の日常を伝える酷い情報を既に十分持っている我々はほぼこの人がフェイカーだと決めてかかっているので、この人物の下手な言葉遊びに今さら誰が引っ掛るもんかと誰しも笑いながら聞き流してきた。ところが……
 ところが何が「ファクト」で何が「フェイク」かを巡って近代国家の嚆矢にして頂点を極めた国家なり文化が150年の長きに亘って領域越えて七転八倒したこと、「近代」400年の政・経・社、そして哲学、宗教、そして所謂文学までがその七転八倒の英国文化をモデルに展開されてきたことを、河岸のみロンドンをワシントン D.C. に変えてトランプ氏が改めてはっきりさせたことになる。
 何が言いたいか既に明白だろう。「ファクト」なる語がいつ英語に登場したかである。こういう場合、英語の単語ないし「観念」(のとりわけ起源ないし語源)については『オックスフォード大英語辞典(OED)』を必ず参照すること(というか各定義を熟読すること)。すると或る語が或る意味でいつ登場し、いつ頃その意味で一番よく使われたかが誰のどの文章かを豊富な用例として引きつつ明らかにしてもらえる。すると、ラテン語で「つくる」を意味する動詞の過去分詞形"factum"の語尾を落とした「つくられた(もの)」に我々の言う「事実」、多くの人が共通して確かなこと、確実なものとして認識する対象という限定的な意味で初めて登場する(初出する)のが1632年だとわかる。予想通りで、却ってびっくりする。我々が今日言う情報という意味の「データ(data)」についても同様に、それが「与えられた(もの)」というラテン語の過去分詞datumの語尾がとれた形に、まさしく正確な情報という限定的な現代的意味が付与されるのが今度は1647年と知れる。これも予想通りで、歴史が構造的必然の連鎖からできていると理解しようとしている態度は基本的に間違っていないとわかって、嬉しくなる。極言すれば、デフォーやスウィフトがこだわり抜く(ふりをする)真「実」とか「実」話とか言う場合の"real"そのものが、英語初出1601年なのだ。初歩的な西洋史学、英国史ですら、その頃、いかにカトリック文化が政・経の中心をプロテスタント(というかピューリタン)にゆだねていく、ないし奪われていくかということは教えてくれるだろう。英国(というか厳密に言えばイングランド)では1642年から49年にかけて大内戦、清教徒革命が生じて、スコットランド王がイングランド王を兼ねるスチュアート朝の当時の王だったチャールズ一世が市民勢力に打破され、王の市民による弑逆というか処刑が断行され、王党派カトリック勢力の駆逐とプロテスタント議会派の席捲という政治力学の大逆転が生じた。宗教地図の塗り替えと厳密に結びついたこの政・経地図の大塗り替えは世紀が17世紀に変った頃から表沙汰になり、この清教徒革命、王のフランス亡命、名誉革命を経て、アン女王の治世下のオーガスタン・エージを経て18世紀半ばにはひと区切りついている。要するにピューリタンイングランド、つまりロンドンを中心とする地域を政治的にも文化的にも制圧し、スコットランドを併合し、スウィフトの愛するアイルランドにも力を及ぼそうとし始めていた時期に当る。この150年に亘る大変革時代の後半期がデフォーやスウィフトの生きた時代に当る。ひとつの価値体系が全く逆な別個の価値体系に変る。スウィフトは聖職者だからそうそう簡単に変節するわけにはいかないが、商人だったデフォーなどは職業柄、いろいろな所に出歩く必要もあり、政府のスパイ役も果たしたが、ホイッグ党政権下ではホイッグ党のスパイとして、トーリー党支配下ではトーリー党のスパイとして働いている。同時代文業の大立者たるドライデンなど「変節の王」とまで呼ばれたが、さまざまな価値観が時代の中心をめざして競合する(ジョイスの言葉遊びを借りて言うなら)カオスがコスモス化した宇宙カオスモスの渦中にあって、時流を見るに敏な人間でだれが変節しないでいられようか。島めぐり主題にそういう時代の価値観の互いに相対的でしかない併立競合を次々と取り上げる混沌時局の一大アナトミーを繰り展げながら、最終的にフウイヌム主義、というか「理性」主義一辺倒に偏向しつつ、挙句、猥雑な身体性とのバランスあるが故にやっていけるヒトとしての常識の世界を逸脱して恍惚の人の自閉と狂死に至るリュミエル・ガリヴァー(そしてつまりはやはり作者ジョナサン・スウィフトその人)が負った、近代が近代たるため不可避な負の遺産を我々はここでやっぱり重く受けとめるしかない。(ジョナサン・スウィフト高山宏訳〕『ガリヴァー旅行記』研究社/2021年/p.369-373〔訳者解題〕)

確かにポスト・トゥルース、ファクトとフィクションとの区別なんて、今に始まった問題ではないだろう。だが、それゆえにこそ問題意識を持つべきであると警鐘を鳴らしているのだ。ラグナロクが来る前に、人々のモラルは崩れ去るという。作家が吹くギャラルホルンに耳を澄まそう。