展覧会『Water/proof~移動する境界~』を鑑賞しての備忘録
KOGANEI ART SPOT シャトー 2Fにて、2021年4月28日~年5月16日。
二藤建人の映像作品2点、宮本智之の彫刻作品など6点、早川祐太のインスタレーション1点と平面(立体?)作品4点を紹介する、宮本智之の企画による展覧会。
二藤建人
《Another Rain》は、半分に裁断された傘が広げられた状態で中央に取り付けられたスクリーンに投映される映像作品。上映が始まると、スクリーン上部に設置されたパイプの穴から水が雨のように滴り落ち、下のプールで水が受けられる。暗い森を懐中電灯を照らしながら歩き回る人物の視点で捉えた映像が流れる。蔓延る草や葉の茂る木の枝に光が向けられ、途中、マッチの火を点すイメージが重ねられる。郊外の住宅地の誰も居ない道路へと場面が切り替わり、中央下から煙のようなものが湧き上がっていく。煙の中からパジャマ姿の男が現れ、傘の下でふらふらと歩き回る。雷のような光の明滅を機に、画面は暗転する。気が付けば、傘の中からも雨が滴り落ちる。
《catcht the air》は、パジャマ姿の男が、自室の床をコードレス・スティック・クリーナーで清掃している。いろいろな物の置かれた床を縫うように掃除機をかけていく。いつしか部屋には煙が立ち籠め、籠の中の鶏も困惑したように振る舞う。男はクリーナーを持ち上げて、部屋の中に充満する煙を吸い取り始める。場面が森に切り替わるが、やはり煙が立ち籠めている。パジャマ姿で裸足の男は、煙を吸い取ろうと、クリーナーを振り回す。
かつてサラリーマンをしながらアーティストとしても活動していたという作家の経歴を作品に重ね合わせると、《Another Rain》においては、灯を点し森を徘徊する主観映像に、創作意欲に突き動かされ、これだという表現を模索する芸術家の姿が見える。住宅街への場面転換とともに、火が消えたのか消されたのか、煙が立ち上り、そこにパジャマ姿の人物が現れる。その描写は、客観的な視点への切り替わりと相俟って、芸術の世界とは異なる論理が通用する日常社会を象徴する。寝間着の男がふらふらしているのは、「社会復帰」に困難を来した「芸術家」が衰弱している姿ではないか。社会生活を送らなければならないというプレッシャーが降りかかるとともに、自らの創作意欲という内なる圧力が"Another Rain"として打ち付けるのだ。このように解すると、《catcht the air》は、芸術を離れて社会生活を送っている「芸術家」に、創作の意欲が燻っていることを表現していることになろう。思いを断ち切ろうと、その煙を吸い取ろうとするが、いつしか男は再び芸術の世界(=森)に足を踏み入れている。
早川祐太
《something》は、黒く塗った正方形の板に、滑らかな藁灰を溶かした水を撒いて放置し、乾燥させたもの。造山運動と相似を成す水の動きが、灰によって保存されている。額装されていることもあり、一見すると、抽象絵画のようである。リチャード・ロングのマッド・ドローイングの系譜に連なることは明白であるが、《River Avon Mud drawings, Ten Mud-dipped papers》において、ロングは、川の泥水に浸した紙を吊すことで重力による「描画」を試みている(さらに上下を転倒させて完成させている)「ドローイング」であるのに対し、「彫刻家」である作家は、風化作用の再現を、極めて薄い「立体作品」として提示している。絵画と立体作品との境界線上の作品であり、水(water)の存在した証拠(proof)となる作品で、本展のタイトルを如実に反映している。
《if the ground were round》は、撥水剤を施した木製のテーブルの天板に開けられた穴に、少量の水がポンプで汲み上げられ、円盤と化した水がごく僅かな傾きによって、離れた位置にある水を受ける穴へと動く様を見せる作品。水は、撥水剤が塗られていない場所に引っ張られるように停止し、あるいは別の水の塊と一体化し、僅かな距離を遅々と移動する間に、ダイナミックな運動・変化を見せる。《something》がかつて存在した水の動きの記録であり、(アドルノに倣えば)美術館(Museum)=墳墓(Mausoleum)的作品であるのに対し、《if the ground were round》は今ここにある水の動きを上演する劇場(Theater)的作品である。また、前者が蒸発という直線的なテーマを扱うのに対し、後者は循環的なテーマを扱っているとも言える。
宮本智之
「トンネルの先」と題されたコンクリートの彫刻のシリーズは、溝堀を施した円柱の一部のようでも、竹輪麩やカヌレ(「縦溝のある」を意味する"cannelé"に通じる)のようでもある。《トンネルの先 #3+アトリエ・トレース・ジョーギ #6》は穴が穿たれていることで、《トンネルの先 #2》は壁に設置されていることで、コンクリート製の構造物でありながら軽みが表現されている。
「アトリエ・トレース・ジョーギ」と題されたビニールテープの作品は、作者の彫刻作品の基底の形を表すものである。《トンネルの先 #1+アトリエ・トレース・ジョーギ #1 #3》では、2つの「アトリエ・トレース・ジョーギ」が、バウムクーヘン(但し、円柱というより円錐に近い形)を焼く装置のような彫刻《トンネルの先 #1》の前後を延長して壁面にぶつかった位置に貼られている。彫刻は、自立した作品ではなく、本来ある姿の一部の表現となる。作家は「彫刻の完成を制作過程の中で変更、迂回することを、流木のような状態と考え」ているというが、「流木」こそ山に自生していた木の一部であり、その意味でも作品は流木なのかもしれない。彫刻の延長されるはずの空間を自由に往き来する。あるいは、《入り口のあかり》なる作品の存在によって、鑑賞者は彫刻なるトンネルの内部にいることになるのかもしれない。
作家が、作品の内部からの視点を意識している点は、作家自ら出演する(=作品の内部に入る)二藤建人の映像作品に通じるものがある。また、流木が自然により偶然に産出されたものであるという性質に着目すれば、早川祐太の《something》と共通点がある。