可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 谷原菜摘子個展『うきよの画家』

展覧会『谷原菜摘子展「うきよの画家」』を鑑賞しての備忘録
上野の森美術館ギャラリーにて、2021年6月1日~6日。

ベルベットに描いた絵画7点(《穢土》、《Family Portrait》、《審判》、《まつろわぬもの》、《星を頂戴》、《マネキンは歌う》、《創世記》)と紙に描いた作品1点(《White Eyes》)とで構成される谷原菜摘子の個展。

《穢土》(2015)の前景には卓袱台などが置かれた畳敷きの室内が描かれている。畳には水紋や渦といった枯山水の砂紋のような文様が表され、また中央には深淵の亀裂が覗いている。右手には和箪笥があり、引き出しに潜り込もうとする魚が背鰭や尾鰭を見せている。左手にはディスプレイが設置されており、その画面には、津波が去った後なのか、大量のモノが散乱した浅瀬に人魚の姿が映っている。畳と戸外とをつなぐ縁側には白波が立ち、花魁や幽霊(?)など4人の女性が佇む昏い海の広がる後景へ連なっていく。その海の手前側の左右には金色の竹が生えており、部屋の欄間と相俟って、海を借景とするための額縁ならぬ、4人の女性により上演される舞台のプロセニアムとなっている。
《穢土》において、屋内(=陸)と屋外(=海)との間にある縁側(=波打ち際)は重要なモティーフと考えられる。

 (略)すべてが変転し、生成するウェザー・ワールドでは、すべての物はつかのま「束ねられた」物である。何が束ねるもので何が束ねられるものかが決まっていない。質量と形相は逆転する。それは運動の中で縛られ、繋がったのであり、また、解かれ、分離していく。束ねることとは、運動している素材を集め、全体として折り合わせる過程であって、静的な素材を固定した型にはめ込む過程ではない。大地と風と海が相互に浸透し合っている過程の中で、自己は作り出され、また解体していく。
 私たちの住んでいるのが、海洋惑星であるとすれば、剛体は流体の一様体にすぎない。私たちの存在自身がウェザー・ワールドの一部であるし、大きな大気と接している小さな海でもある。しかし剛体の存在論を信じる男性たちは、空気や水を土に変えることができるという幻想にしがみついてきた。
 境界ということに関していえば、剛体の存在論は、境界が明確な対象をあらゆる存在のモデルとすることによって、テリトリーや所有の境界を確定し、その囲い込んだ場所を利用するという発想を生む。他方で、水と空気の存在論は、境界が明確ではなく浸潤し合う存在をモデルとすることで、世界を運動体として理解し、その運動を移動や運搬に利用するという発想を生む。移動して棲むことは動物の本質であり、固定的な家に住むことに先行する。しかし、もしこの惑星の基本様態が変転の止むことのないウェザー・ワールドであるなら、私たちは水と空気の存在論を採用しなければならない。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014年/p.119)

実際、《穢土》において、室内(=陸)を表す畳は、水が流れるような文様を形づくり、あるいは波が立つようにうねる。

 自己を維持するための境界は、堅牢な壁ではありえない。いかなる堅牢な壁も海洋惑星の流動に逆らうことはできず、その内側を海と空気の威力から守ることはできない。複雑で変動に満ちた海洋惑星では、大地ですら浸潤を免れない。一見すると大地が固定しているように見えるのは、海や風からの浸食に動的に抵抗しているからである。砂浜は引き潮で削られていくが、それがなくならないのは、川から砂が運ばれ続けているからである。安定性は、反作用と抵抗の結果であって、単なる受容の結果ではない。自己維持は積極的・創造的にしかなしえない。大地も、海と同様に、生成し運動している。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014年/p.202-203)

《まつろわぬもの》(2019)においても、大根の植えられた庭(屋外)と畳敷きの屋内との境界として縁側が描かれている。それは、赤いコートをまとい、剣のような形の左腕を突き出す、「主演女優」の立つ舞台として機能している。

縁側(波打ち際)が、屋内(=陸)と屋外(海)の境界であるなら、人魚は、人と魚との中間の形態であり、境界上の存在と言える。

 (略)哲学者や宗教指導者にとって、ハイブリッド生物は希望と危険、恐怖と不思議を同時にあらわしていた。人知のおよばぬ異形の領域に属するものは、それゆえに人間を混乱を破壊に満ちた無秩序な世界へ招き入れるように感じられたのだろう。(略)
 (略)
 紀元3世紀から5世紀頃より、キリスト教会の指導者は古代の異教の象徴である人魚の形を変えつついっせいに取り入れ、敬虔な信仰や自制といった教えを伝えるために利用した。(略)
 この過程で重要なのは、人魚の肉体の表象の仕方だった。現代のわたしたちが思い描くマーメイド像は、初期のキリスト教の聖職者がつくりあげたこの謎の生き物そのままだ。伝統的なマーメイド像といえば、腰から上が人間の女性の姿をした半女半魚、長い髪をなびかせ、裸の胸をあらわにし、片手には鏡、もう一方の手には櫛をもっている。これは、キリスト教会の指導者にとって不思議と危険を示すのにうってつけのシンボルだった。聖職者は、神が「自ら定めた自然の法則を変えられる」存在であると顕示するために、そんな「化け物」を利用するのみならず、異教のシンボルを使ってとくに女性性の価値を下げようとした。その結果、露骨に性的なマーメイドの表象が、教会建築の彫刻や動物寓話集や装飾写本にあふれた。初期のキリスト教会や中世の芸術作品において、裸体表現、とりわけ性欲をかき立てるものとしての裸はめずらしいものだった。だからこそ、トップレスの女性(おまけにうろこに覆われた魚の尾をもつ)であるマーメイドは、見る者にひと目で衝撃を与えたにちがいない。(ヴォーン・スクリブナー〔川副智子・肱岡千泰〕『[図説]人魚の文化史 神話・科学・マーメイド伝説』原書房/2021年/p.10-13)

《穢土》(2015)において、人魚は、ディスプレイという「画中画」に表されていたに過ぎなかった。ところが《審判》(2019)において人魚は、人間によって磔にされた上に腹を切り裂かれており、恰もキリストの地位に位置づけられるように描かれている。また、《創世記》(2021)では、足を持たない人魚たちが竹馬のようなものに乗って移動する姿が描かれている。そこには、失われた足を回復し、あるいは男性性(≒男根)を手に入れた人魚(マーメイド≒女性)の姿を認めることが可能である。

 1991年、ロバータ・トライツは「ディズニーによるアンデルセンの物語の解釈は、新たな世代にセクシスト(性差別主義者)の価値観を刷り込むことにより、彼らの価値観を永らえさせている」として、ディズニーへの攻撃の火蓋を切った。トライツの評価では、この映画〔引用者註:『リトル・マーメイド(The Little Mermaid)』(1989年)〕は「女性を、控えめな存在または邪悪な存在、つまり、男性に依存するか男性から力を盗むかしなければ、自分自身で責任を負う力をつくりだせない存在」として描いていた。彼女の指摘は核心をつくものだった。ディズニー版のアリエル(「人魚姫」)は、人間と、具体的には王子のエリックと暮らすために。自分の声を捨てる。すると、無気味な海の魔女アースラは、アリエルの声を盗む。あとからその声を使ってエリックの、ひいてはアリエルの夢と希望をうち砕いてやろうということだけが彼女の目的だ。アンデルセンの原作には、女性らしくあることを正当で充足した生き方のひとつと認める底意が少なくともあり、人魚姫というキャラクターが女性の上昇志向の漠然とした概念をあらわしていたのに対して、1989年のディズニー版は、トライツにいわせれば「女性であることを肯定する価値観を排除し……(その結果として)女性の品位を奪うキャラクター、姿形、対立を生み出し、原作よりはるかに性差別主義を助長する作品となっている」。トライツにとって、ディズニーのマーメイド、アリエルは、伝統的な――おまけに時代遅れの――ジェンダーの隠喩の人質でしかなかった。
 トライツの主張は賛同のさざ波を起こした。3年後、スーザン・ホワイトはフロイトラカン精神分析を用いて、『リトル・マーメイド』のような映画のおかげで、「ほとんどの文化的製品は迫害と反逆の複雑な織物であり、既存の構造、回復、変容をもてあそんでいることにフェミニストの批評家が気づけた」と表明した。ホワイトにすれば、近年のおびただしい数のマーメイド映画は、女性の社会的、政治的状況の変化をめぐって西洋社会がつのらせている懸念に歯止めをかけるものだった。だからこそ『リトル・マーメイド』は「身体的、社会的制約を受けている女性像」の象徴なのだ。ローラ・セルズは、1995年刊行の論文集の「“マーメイドはどこに立っているのか?”――『リトル・マーメイド』における声と体」と題された章で、ジェンダーの二項対立を繙き、『リトル・マーメイド』は「アメリカのフェミニズムがはらむ緊張関係のいくつかを映し出している。そうした緊張を生んだのは、アクセス権を求める改革論者と……社会変革の前段階としてシンボルの変化を主張できるように、ジェンダーの概念を組み直そうとする急進派というふたつの立場だ」と述べた。セクシーであると同時に幼さの残る、美しいマーメイドのアリエルは、ジェンダーにまつわるこの矛盾の核心にいた。アリエルがあらわしていたのは、海と陸の境界(セルズの表現では「白人男性中心主義」)と、女性がこのシステムに受け入れてもらうために払わねばならない犠牲の大きさだ(この映画ではアリエルは尾と声を手放すことで自分に損傷を加えている)。批判的に見れば、『リトル・マーメイド』の分析は、セルズがポスト・フェミニストの時代における自身のファイブリッド的な立場について考える手助けをした。セルズは「わたし自身、現代のフェミニズムがはらむ矛盾と緊張の産物であるとともに、支配的な文化の盲従者でもある」と率直に認めている。エフラ・ツィーロンもセルズの議論に加わった。彼女がおこなった独自の精神分析的研究とは「舌と声をなくされるという非常に特殊な状況を前提に構築された父権制のなかで生きる人間のありさま、というより女性のありさま」を表現するために、ディズニーがどれほど過度にアンデルセンの物語を単純化したかを探るものだった。(ヴォーン・スクリブナー〔川副智子・肱岡千泰〕『[図説]人魚の文化史 神話・科学・マーメイド伝説』原書房/2021年/p.217-220)

人魚ならぬ人形もまた、人間のようで人間でない境界線上の存在である。《Family Portrait》(2017)における「こけし」としての姻族、《マネキンは歌う》(2021)における男性に群がるマネキンたち、そして、E.T.A.ホフマンの「砂男」の世界を連想せざるを得ない《星を頂戴》(2020)の、女性の膝に乗せられ眼球を刳り貫かれた人形のような女性が「人形」のモティーフである。

既に《穢土》における「プロセニアム」や、《まつろわぬもの》における縁側という「舞台」を指摘したが、作者の作品に登場する(主要な)登場人物たちは、鑑賞者を意識して見得を切るように振る舞っているのが特徴である。《まつろわぬもの》の赤いコートの女性のみならず、《審判》の磔にした人魚の腹をナイフで切り裂く女性がそうであるし、《マネキンは歌う》の、とりわけ中央に蹲る男性を取り囲むマネキンたちは、ミュージカルの振り付けのようなポーズをとっている。すなわち、作品には演劇的性格が通底している。とりわけ、《まつろわぬもの》における、頭にスカートやパンツを被った人物の存在は、価値の転倒を表現しており、シェイクスピア劇の「オクシモロン」に通じるものがある。

 「賢い阿呆」や「無知の知」といった矛盾した表現をオクシモロン(矛盾語法・撞着語法)と呼ぶ。「オクシ」は「賢い」、「モロン」は「愚か」を意味するギリシャ語だ。まさに「賢い阿呆」が原意である。矛盾した内容をあえて結びつけるこの表現は、近代的な整合性にこだわらずに奔放な想像力を行使するシェイクスピアの作劇を特徴づける表現方法だ。
 なぜシェイクスピアが矛盾した表現を好むかと言えば、人間は矛盾した存在だという認識があるからだろう。こうしたほうがいいとわかっていてもそうできなかったり、好きな人を傷つけてしまったり、やってはいけないことをやってしまったりする。人間は理屈を超えた存在であり、矛盾のなかのこそ人生の危うさやおもしろさがつまっているのだ。(河合祥一郎シェイクスピア 人生劇場の達人』中央公論新社中公新書〕/2016年/p.135)

ティーフやテーマで無く技法の観点からすると、作者の作品の特徴は、何よりベルベットに描かれていることである。油絵具の油分が生地に吸収されることでエアブラシで描いた表情を見せる。また、ラインストーンやスパンコールなど、煌めく素材を画面に貼り付けることで、衣装や装身具などの実在感が高まっている。《マネキンは歌う》(2021)を始め、衣装の表現に対する強い執着が画面に現れている。

 ファッションは遊戯であり、それゆえに、おのれの無根拠性を示し、それによって同時に世界の無根拠性をも顕わにする。しかし、ファッションは否定的な効果だけをもつものではない。ファッションは意味も目的もない変化であるが、同時に誘惑である。ファッションは、服飾であろうと化粧であろうと、他人に見られなければならない。他人の目を引き、他人から鑑賞されることのない外見はファッションたりえない。
 見ることは、一見すると能動的な行為に思われる。しかし、見る対象に視線を合わせ、対象を目で追い、目をこらして調整しなければならない点で、対象のあり方を受容しなければならない。この意味で、見ることは受動的である。他方、見られることは、一見すると受け身なことに思われる。しかし、知覚する者の視線を自分に集めさせ、注目を引きつけ続けて、自分のあり方に知覚者を服従させる点において能動的である。見られるという受動性は、自分の発する可視性の中に相手を捉え、可視性を放射することによって、周囲の者たちの態度を変容させる。見られることは、見る者を誘惑することである。
 ファッションは誘惑であるがゆえに、不特定多数を相手にする。ファッションをまとった私は、見られることによって他者の居る世界に参入し、見られることでその世界の中に位置を占める。ファッションとは、どこまでも現在の世界のあり方から逃れようとする逸脱であった。しかし見られる回路を失ったファッションは、意味不明のものになってしまう。ファッションは、他者から見られることを通して、世界の外に出る逸脱から世界の内部へと帰還し、世界に復帰する。ファッションの逸脱は、ファッションが見せるものであることによって、世界の外へ出て内へと戻る弧を描く過程となる。ファッションのもたらす変身は、見られることによっておのれのニッチを世界の中に見いだす。
 ファッショナブルな人は、おのれを見る人を通して、おのれを世界に着陸させる。ファッションを見る人も、ファッションを見ることで変化する。ファッションは、新しさによって見る者の目を奪い、見る者のなかに侵入して、過ぎ去るべき古きものとは何かを指定する。ファッションは、それを見る人の時計のねじを回す。そうしてしばらくたって、他者がそのファッションを見飽きてしまいファッションの新奇性が薄れたときに、他者の視線はファッションをまとう人に向けられなくなる。そのときである、変身が起こり、新しいファッションが生み出されるのは。
 ファッションは他者に働きかけて、他者との関係性を変えることで自己を変え、他者の回路を通じて自己を完成させようとする。それは無根拠な自己を他者からの承認によって世界に住まわせる。しかし、ファッショナブルな人は、固定的な人間関係に安住することができない。ファッションは不特定多数を誘惑する。それは、特定の誰かにではなく、誰に対しても自分を見るように自分を差し出す。ファッションに身を包む自己とは、そうした不特定多数の人びと、すなわち、誰でもない人々、社会的役割が何であるか分からない人びととともに生きている人間の存在様式である。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014年/p.40-42)

《星を頂戴》(2020)において、通勤電車のロングシートの中央に腰掛けた白いドレスの女性は、膝の上に乗せた女性の片方の目玉を取り出している。文字通り「目を奪」って虜にしている。通勤電車という、「不特定多数の人びと、すなわち、誰でもない人々、社会的役割が何であるか分からない人びと」を観客に迎える劇場で上演されるファッション・ショー。それは本展自体のアナロジーともなっている。