可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 谷原菜摘子個展『紙の上のお城』

展覧会『谷原菜摘子展「紙の上のお城」』を鑑賞しての備忘録
MEMにて、2021年5月26日~6月20日

パステル画29点と油彩画2点とで構成される谷原菜摘子の個展。大きい空間ではパステル画の新作12点を、小さい空間では新作の《黒い女》とフランス滞在時に制作された肖像画16点を、受付カウンターの脇では油彩画2点を、それぞれ展示している。

《道を忘れたので神様に聞きに行く》には、東山魁夷の《道》のように画面手前から奥へと延びる道、否、波が立つ水路が、画面手前に立つ後ろ向きの女性の後方、斜め上方から捉えられている。彼女は飛石の1つにいて、3つ先にある石の上には、愛らしい雪だるまが置かれている。水路の両側を取り囲むのは、夕焼けの空に浮かぶ雲を思わせるような、赤、橙、ピンクなどを呈した流体で、RPG(CRPG)の一場面のようである(展覧会タイトル「紙の上のお城」はむしろTRPGを連想させる)。天から降った雪で作られた雪だるまには、神の言葉が記憶されていても不思議では無い。あるいは、にこやかな雪達磨は幼い日の象徴であり、童心(≒初心)に帰る姿勢を表すのかもしれない。

《人魚の唄》は、海から突き出した光り輝く岩に腰を掛けて竪琴を奏でる人魚を描いたもの。魚の形状を持つ下半身は、ところどころ鱗が剥がれて血が滲んでいる。のみならず、左顔もひどく傷ついている。

 マーメイドの醜い起源をたどるときに避けてとおれないのが、ギリシャ神話の怪物スキュラ、そしてホメロスの『オデュッセイア』(紀元前8世紀)に登場するセイレンだ。海に棲むこの女たちは、どちらも無気味な怪物で、人間の男に苦悶の死をもたらそうとする。ここで重要なのは、スキュラもセイレンも、現代のわたしたちが思い浮かべる半人半漁のマーメイドとは似ても似つかぬ姿をしている点だ。ホメロスの描くスキュラは、「無気味な声で吼え……足は十二本、いずれもぶらぶらと垂れており、頗る長い頸が6つ、その一つ一つに、見るも恐ろしい首が載っていて、ぎっしりと詰った歯が、黒き死の恐怖を漲らせて3列に並んでいる」(『オデュッセイア』、岩波文庫、1994年、松平千秋訳)。スキュラは、どう見てもメイド(乙女)ではなかった。悪名高きセイレンに関しては、ホメロスは外見を描写せず、死と破壊を司る彼女たちが、オデュッセウス一行におよぼす危険を強調するにとどめた。ただし、セイレンの「誘惑の言葉[英語で「siren song(セイレンの歌)」という]」の約束するものが、セックスではなくむしろ無限の知であることを忘れてはならない。ホメロスはこうして人に向上を授けるというエア〔引用者註:アッカド人の崇拝した海神で、バビロニア人は人間に文字や学問や技術を教えて人間が人間らしくいられるよう導く神オアンネスとした〕の約束を死の約束に変えてしまった。(ヴォーン・スクリブナー〔川副智子・肱岡千泰〕『[図説]人魚の文化史 神話・科学・マーメイド伝説』原書房/2021年/p.31-32)

《人魚の唄》には、セイレン(≒人魚)の歌に誘惑され人間の男は、啓蒙を象徴する光を放つ岩(無限の知)ではなく、目の前で濡れ光る白い肌(セックス)を求めた(そして海に沈んだ)という物語を読み込むことができそうだ。

《どうせ死ぬならご一緒に》の後景では、巨大な壁のように高く立ち上がった波が右から崩れ始めている。画面前景左手には、それぞれ宝箱を持つ4人の少女たちが身を寄せ合う姿を描いている。《追憶》の中景には、消波ブロックの上に坐る女性の左右に、一つ目の人物が5人ずつ並んで座る姿が描かれている。前景には傾いて海面に沈んでいくバスの上部が見えている。《期待》は、画面手前から奥に向かって延びる水辺の草むらに腰を下ろす7人が皆、鑑賞者の方に顔を向けている。水面には岸辺に集まって来た10匹の鯰が姿を見せている。《どうせ死ぬならご一緒に》の高い波は津波のイメージであり、《追憶》の沈むバスは津波に攫われた存在を連想させる。また、《期待》の鯰からは地震の発生の前触れを、一斉に同じ方向を向く顔が作る列は、初期微動(P波)や主要動(S波)、あるいは津波の波の形を想起させる。

鳥人間と人間鳥》は、タイトル通り、鳥になった人間と人間になった鳥が横に並んでいるのを胸から上で描いている。隣に展示されている同タイトルの別の作品では、タイルが敷き詰められた床に鳥人間と人間鳥が横に並んで立っている。2人(?)の周囲には、ベッドや、手術器具の載ったテーブルの他、映画『ザ・フライ』(1986)の物質転送機「テレポッド」を連想させる、カプセル装置が4機置かれている。

 (略)紀元前3世紀にはいると、ロドスのアポロニオスが、セイレンに姿形を与え、「見たところ なかば鳥の、なかば乙女の姿であった」と描写している(『アルゴナウティカ――アルゴ舟物語――』、講談社学術文庫、1997年、岡道男訳)。ここでも、セイレンは美しい半女半魚ではなく、鉤爪と翼をそなえた鳥女だった。(ヴォーン・スクリブナー〔川副智子・肱岡千泰〕『[図説]人魚の文化史 神話・科学・マーメイド伝説』原書房/2021年/p.32)

鳥人間あるいは人間鳥は、「鳥女」であり、セイレン、人魚と接続するイメージである。

《吸血鬼の家》には、洋館の吹き抜けの空間の螺旋階段に置かれた、頭部の無いドレスの女性、すなわちマネキン人形が描かれている。マネキンの近くを吸血鬼(男)がマントを広げて飛翔している。ジョルジョ・デ・キリコの作品を連想させるような、画面奥に向かって集中線のような線が引かれた床の手前には吸血鬼(女)が立っている。狭い舞台に奥行きを生み出すための仕掛けと見ると、螺旋階段や柱などが舞台装置に見えてくる。《室外エレベーター》には、室内からベランダ越しに見える高層ビル群を描いている。3本の黒い棒が下から延びて、それぞれの上に女性が棒乗りの曲芸のように載っている。だが、アクロバットを見せるにしては、女性たちの衣装がカジュアルである。窓枠をプロセニアムアーチとした人形劇の上演と解することもできよう。すると、《吸血鬼の家》と《室外エレベーター》とは、舞台(演劇)と人形とでいう共通点を持っている。

「スケルトンの一生」と題された3作品が並べて展示されている。それぞれ「宴の後」、「旅立ち」、「最後の後景」と題された作品には、空豆の形に成形されたミジンコ(?)を思わせる透明のキャラクターが、部屋の中で横たわり、都会の横断歩道に立ち、草原を突っ切る道路に横たわる姿を見せている。否、「スケルトン」は透明であろうから姿を見せていないというべきか。

 AであってAでないという、矛盾律を否定した世界こそシェイクスピアの喜劇世界たと言ってよい。論理学の世界とちがって、実人生では、ものごとはわりきれない。そうなのだがそうではないというどちらつかずのことがあるから、人は悩むのだ。「私」というものの中身も変化し、「良い」と思っていたものが「悪い」に変わったりする。
 こうした矛盾を受け入れる発想は、当時の人文主義思想の根底を支えた新プラトン主義の考えかたにあった。「反対の一致」ないし「対立の一致」(coinsidentia oppositorum)という概念を提唱したクザーヌスによれば、これは「無知の知」(知ある無知)と関連している。クザーヌスは、神の本質である無限において、極大である神と極小である被造物は一致し、神の調和の中であらゆる対立は一致すると説いた。三角形の一辺を無限に長くすれば三角形は直線と一致する。そのように極大においてあらゆる対立は解消されるというわけである。
 クザーヌスは、宇宙の中心を人間と考えたことでルネサンスの思想への橋渡しをした重要な哲学者である。人間を描いたと言われるシェイクスピアのものの見方は、このような当時の時代思想に基づいているのだ。(河合祥一郎シェイクスピア 人生劇場の達人』中央公論新社中公新書〕/2016年/p.142)

《黒い女》では、ノースリーブの白いワンピースを纏った黒いマネキンがポーズをとっている。その大きく開けた口は黒いヴェルヴェットを貼り付けることで現されている。アニッシュ・カプーアの表した黒い円(《Void Pavilion V》)のように、「彼女」の口は深淵のとば口のようであって、奥へ奥へと進んで行くことができそうだ。だが、その実、その深淵は、周囲の画面より盛り上がっているのである。一種のオクシモロンが表現されていると言って良いだろう。