可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 堀江栞個展『声よりも近い位置』

展覧会『堀江栞「声よりも近い位置」』を鑑賞しての備忘録
加島美術にて、2021年5月29日~6月12日。

堀江栞の個展。1階では肖像画「輪郭」シリーズを中心に比較的大きな画面の絵画18点を、2階では比較的小さな画面の絵画38点に加え写真9点を展示。

1階の展示空間には主に「輪郭」と題された肖像画のシリーズが展示されている。冒頭の《輪郭#9》(2020)には、青い花を胸の位置に構える少年の上半身が描かれている。暗灰色の地から、わずかに水色が覗く。髪は緑が主。カーキのシャツのボタンは首元の位置まで全て留められている。岩絵具の粒子が粗いのか、画面全体がゴツゴツとしている。《輪郭#11》(2020)は、黒を背景に、右手でクマの人形を持つ少女の全身像。髪や服は青。《輪郭#5》(2019)は、灰色の地に、青いシャツの女性の胸像が描かれている。灰と色を中心とした髪色。ピンクやペールオレンジで表された肌は血色の良さを伝えるが、やや上目遣いの目は焦点が定まらない。「輪郭」シリーズは、少年か少女か、全身像か胸像か、持ち物が有るか無いかなどに違いはあるが、絵具の粒子がざらつく明度を抑えた画面に表された肖像画という点で共通する。《後ろ手の未来》(2019)では、「輪郭」シリーズに登場するような少年少女が全て同じ「国民服」のようなカーキ色の服を着て4列に並んでいる。その印象もあって、「輪郭」シリーズが、戦前期、1940年代前半のような雰囲気を展示室に醸し出している。

周りに合わせ、意思を表明しないまま流されていきがちな現在の状況に、私は不安を覚えています。歴史を振り返れば、同様の景色が広がっていたことは明らかです。小さな声は蔑ろにされ、異を唱えるものは居場所を奪われてきました。「痛みを負った哀しさや辛さを抱えている者」たちの声。周囲に、社会に踏みつぶされそうな声。そんな声を聴き取るために、「人」を描いてみたいとはじめて思いました。私が彼らを描こうとしているのは、単なる共感からだけではなく、その抗いの姿勢を継承するためでもあります。今はもういない彼らとこれから来る彼らに、寄り添い続けていきたいと思っています。(堀江栞による本展に対するステートメントより)

片方の靴が失われた腹話術の人形を描いた《ここにあることⅩ》(2020)や、所々穴が開いているクマのぬいぐるみを描いた《ここにあることⅨ》(2020)など、「痛みを負った哀しさや辛さを抱えている者」たちを象徴する作品がある。他方、女の子の人形を抱えている少女を描く《輪郭#8》(2019)において、少女は右手で人形の裸の胸を、左手で人形の下腹部を覆うように表されている。人形が象徴する女性を守ろうとする姿勢が明白である。そこには、ヴァルター・ベンヤミンの、「過去の抑圧された人間たちに声を聞き取ること、われわれ自身がひとりのメシア、救世主となって、かつて搾取され圧殺されて『歴史の闇』に消えていった人間たちの無念の思いを晴らしてや」ろうとする態度と共通するものが認められる。

 ナチズムに追われる中で、フランスとスペインの国境の町で服毒自殺したヴァルター・ベンヤミン、その彼が死の直前まで書き綴ったとされる「歴史哲学テーゼ」(あるいは「歴史の概念にいて」)。これは、周知のようにベンヤミンの最後の著作であり、彼の思想的な遺書として様々に解釈されてきた。いくつかの難解な比喩をどう解釈するか、あるいは個々の記述が具体的に当時のどのような事件や状況を念頭に置くものなのか、など解釈の前に立ちはだかる問題も多い。しかし、全体として見るとき、このテクストには、歴史についての比較的明快なテーゼが含まれている。
 要するに、歴史認識というのは、過去の抑圧された人間たちに声を聞き取ること、われわれ自身がひとりのメシア、救世主となって、かつて搾取され圧殺されて「歴史の闇」に消えていった人間たちの無念の思いを晴らしてやることでなくてはならない、というのがこの著作の基本的な趣旨である。自分たちと彼らのあいだには眼に見えない繋がりがあり、おまえたちの怨みを晴らしてやる、仇を討ってやる、という密約があったのだ、彼らは自分たちを待っていたのだと想像することによって、過去が認識される。彼らの無念を晴らす、それがベンヤミンの言う過去の救済、解放ということである。
 それにはまず、表面的な歴史記述、つまり権力の描く歴史の物語から漏れ落ちる彼らの声を聞き取ることができなくてはならない。史的唯物論は、自分たちの子孫、未来の世代を解放するのではなく、隷属を強いられていた先祖を救済し、過去を解放してやるものでなくてはならない。自分たちが現在において行おうとする行為が、過去の人々の果たせなかった夢や希望を地上において実現させるものだと考える、そういった姿勢においてのみ、過去もひとつの明確な姿となって現れる……。
 実は、そのような形で過去の人々の抱負や主張を引用することは、しばしば権力を握る連中が自分たちの行為を正当化するためにも行うことだが、ベンヤミンの場合、過去の人々の中でも言わば敗者や被抑圧者たちの側に付いて、彼らの怨念を晴らそうとするわけである。彼はそれを、歴史の連続体を打ち破ること、歴史の連続体から過去を叩き出すこと、「過去の中への虎の勇躍」だとも言っている。
 ベンヤミンにとって、「瞬間」とは、歴史の勝者が描く連続した歴史の構図を打破し、その下方に閉じ込められた犠牲者たちの怨念を叩き出し、それを想起することである。連続性によって隠蔽された暴力と残虐の記憶をこの今に生々しく噴出させることだった。(高田珠樹ハイデガー 存在の歴史』講談社講談社学術文庫〕/2014年/p.251-252)

2階では、「包まれた時間」と題した、石を描いた小品のシリーズ6点(2014-2020)が展示されている。模様、穴、亀裂などそれぞれに特徴を持つ石が描かれる。石と言えば、拾った石をそのまま木彫作品で再現した橋本平八《石に就いて》を思い出さずにはいられない。

 石に仙あり 実写に掛かる前に 仙ある石を選択す可き 仙ある石とは完全なる石なり 欠けたるところなき石なり 生まれたるままの石には必ず仙あり 石として具足の形なり

 つまり「仙ある石」を選べということなのだが、これではよく解らない。仙ある石とは完全なる石「欠けたるとことなき石なり 生まれたるままの石」ということであるが、いわゆる山肌から滑落した石や、摩耗した丸石でないことは平八の選んだ石から推測できる。ではどういう石なのか。これに関係するものとして昭和8年頃の記述にこうある。

 石が山地水源から切磋琢磨されて石本来の姿に甦る それは石になるばかりでなくて、石本来の姿勢即ち その原質的な姿 その山 その石の郷里の姿に要ることに依って始めてその石に生命が甦る。生きた石になる。

 これは石自体がその石を産出した山を想起させることが生きた石の条件という意味と思われる。平八が石に自然の造形美を観ていたことは既に述べたが、平八が採集した石を見ても、単なる美しい石を選んだのではない事が判る。記述からも判る通り、平八は私達の想像を絶する大きなスケールで自然を捉え、石を選んでいたようなのである。昭和6年頃の「彫刻A型の研究」という記述を部分的に少し長いが引用する。

 しからば彫刻の原始とは何であるか。山の外皮即草木土壌を除り去るところに 蛇紋岩鮮かなる岩石が表れる この巨大計り知る可らざる岩石即ち山の骨である。この山の骨即ち地球の骨格である。この地球の外面の未だ土壌もなく草木も無き地殻の時代 地球面の光沢ある時代 この源始の時代を私は想像する 想像するばかりでなく 事実今日岩石は風化して土壌となりつつあるを目撃するから 地球のある時代に於て 今日科学博士達の云ふ気体の時代でなくて その時代と何億万年の間■あるかは知らない 其地球面の光沢ある時代 地球一態に蛇紋鮮やかなる時代 此の時代が存在し得る 此の時代を私は仮に源始立体時代と称ぶ。この時代ガスでない岩石の時代のこの時代(注釈あり判読できず)私は彫刻の源始点と定めるものである。

 ここに登場する山は、蛇紋岩という記述からも平八の故郷にある朝熊山を想定して語っていると思われる。それにしても地球の誕生まで遡って山を見ていた平八のそのスケールの大きさと想像力の逞しさには驚かされる。彫刻の「内性即ち神秘の源泉を追及」していくと地球の誕生まで遡ってしまったということなのだろう。またこの記述から解る事は平八が山に彫刻の原始を見ていたということである。これはつまり山自体に彫刻性を感じていたということである。(黒田大祐『「不在の彫刻史」附録』黒田大祐/2017年/p.27-28)

橋本平八のように地球の誕生に遡らないとしても、石が形成されるに当たって膨大な時間を要したことは容易に想像できる。従って、石を時間のメタファーと捉えることは十分可能である。作家は、肖像画の「輪郭」シリーズ同様、石を描く「包まれた時間」シリーズにおいても、ざらついた画面を作っている。否、先行する「包まれた時間」シリーズに倣って、肖像画の制作に当たり、時間を象徴する石に擬態することを企図したのではかろうか。ある種の陶器の表面のような絵肌は、作家による画面の石化の試みである。
2階には「アンドロメダを想う」と題されたシリーズ2点(2014-2015)も展示されている。海洋生物の「横顔」を画面いっぱいに捉えた作品は、タイトルからはかけ離れているように見える。だが、作品で一際目を引くマリンブルーや群青で表された極めて大きな目をじっくり眺めれば、タイトルの由縁を理解できる。目はアンドロメダ銀河を表しているのである。とりわけ《アンドロメダを想うⅠ》(2014)では、渦巻銀河を表すと思しき白いもやがかかっている。なぜアンドロメダ銀河が目に映るのか。それは、「アンドロメダを想」っているからである。「美しい自然に向かって子供が『自然が目を上げてこっちを見てくれてるよ』と感激して母親に」告げるとき、その瞳には間違いなく美しい自然が宿っているのだ。

 (略)恋する相手は、近くにいても遠い。その存在がこちらを見つめてくれたとき、あるいは美しい自然がこちらのまなざしに応えかけてくれるかのように思えるとき、アウラの幸福はあるのだろう。「ボードレールにおけるいくつかのモチーフについて」にはこうある。

 アウラの経験は、人間社会によく見られる反応形式が、生命のないものと人間の、あるいは自然と人間との関係に移されて生じているものである。見つめられている者、あるいは見つめられていると想っている者は、伏せていた目を上げて目を開く(schlägt den Blick auf)、ある現象のアウラを経験するとは、この現象に、こちらを見つめる能力を賦与することである。

 あるいは、『パサージュ論』には次のような表現もある。

 アウラについての私の定義。見られているものが気がついてこちらを見る時のまなざしの遠さ。

 密かに好きな人を見つめていると、そのことに気がついた相手がこちらをなにげなく見返したとき、その瞳がこちらには、かぎりなく遠い――という経験は、誰にもあるだろう。しかし、ここでは、それ以上に、「生命のないものと人間の」そして、「自然と人間の関係に移されて」いるところが重要である。さきほどの引用でも、「遠くの山並みのアウラを呼吸する」ということが言われていたが、遠くの山並みがこちらを見返す、といった趣旨の表現もある。我々の日常感覚には反するが、生命なき自然がこちらを見返す、つまりいっさいのものにアウラがありうるのである。「象徴の森が親しいまなざしで人間を見守る」というあの有名なボードレールの一節が当然背後にあるが、さらには、「自然が目を上げてこちらを見返す」という意味の表現は、フルトという研究者の私家版の論文によれば、20年代の通俗小説家ヘルツォークの『オプターベルク夫人の子供たち』という小説からだとのことである。美しい自然に向かって子供が「自然が目を上げてこっちを見てくれてるよ ihren Blick aufschlagen」と感激して母親に言うシーンがあるそうである。ベンヤミン自身は先のボードレール論からの引用の直前の箇所で、「見てもらうには注目が必要」(Die Wahrnehmbarkeit ist eine Aufmerksamkeit. 直訳すれば「知覚可能性とは注目である」)というロマン主義ノヴァーリスの言葉を引いている。逆に言えば、「我々は、こちらを見てくれるものだけを見ているのである」(「遊歩者の帰還」、これは、先にも触れたとおり、ベルリンを散策する友人ヘッセルの著作からの引用である)。通りすがりの女性は見返してくれなかったが、そもそも見返してもらうためにはこちらが注視しなければならない。そしてそれは自然に対しても同じだということである。そのときにのみアウラが閃くのである。あるいは漂うのである。
 (略)
 こうして見ると、密かに恋している人のまなざし、通りすがりの女性が見返してくれた時の「近さの遠さ」だけではなく、つまり特定のものだけではなく、いっさいの自然が、ベンヤミンが好きだった古本だけでなく、また家具だけでなく、現代生活の細かい道具がアウラを発するようになるのが、『パサージュ論』および「複製技術時代の芸術作品」など晩年の目論見であったことがわかる。こうした物たちの「アクリュアリティのアウラ」という言い方もすでに早くにしているが、それ以上に、そもそも我々が星の関係のうちに読み込む星座も、ベンヤミンから言えば、星座がこちらを見つめているのである。「星々がまなざしを向けてくれる(ihren Blick aufschlagen)地上の生き物や物たちがあるのではなかろうか? 星座こそは彼方からのまなざしを通じて、アウラの原現象なのではなかろうか?(三島憲一ベンヤミン 破壊・収集・記憶』講談社講談社現代文庫〕/2010年/p.476-479)

アンドロメダを想う」シリーズを見てから、改めて「輪郭」シリーズを眺めると、瞳の青い輝きに気が付く。作家は、「過去の人々の果たせなかった夢や希望」を画面の中に封じ込めていたのである。だからこそ、「星々」(=瞳)が鑑賞者に対して「まなざしを向けてくれる」のだ。