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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 やましたあつこ個展『花びらのワルツ』

展覧会『やましたあつこ個展「花びらのワルツ」』を鑑賞しての備忘録
biscuit galleryにて、2021年5月27日~6月13日。

やましたあつこの絵画展。2階で展示される新作「ワルツ」シリーズを10点を中心に、1階では旧作27点が合わせて紹介される。

「ワルツ」シリーズの絵画に共通するのは、皺の寄せられた赤味を帯びた金色の地に、赤い髪を三つ編みにした女性と青い髪を三つ編みにした女性の両者あるいは一方(花を摑もうとする両手のみを表す《ワルツ#10》を除く)が描かれていることである。また、大小の白い楕円が画面に散らされることで光が溢れる様子が表されるとともに、植物の枝葉が生け垣のように全面を覆うことで閉ざされた世界が生み出されている。

 イギリス最大の詩人であるジョン・ミルトンは、清教徒革命の頃に大変悩ましい生涯を送りました。その大傑作『失楽園』はアダムとイヴの原罪と救済を描いた長編叙事詩で、彼らが楽園から追放されていく庭の描写がじつに美しく、イギリス文学の最高峰というだけでなく、世界の庭文学全体の極点となりましたが、1667年の作。そのミルトンを大いに助けた詩人、アンドルー・マーヴェルもパトロンになってくれた貴族の屋敷を讃える不思議な庭と建築の詩編を数多く残しています。「緑陰緑想(a great thought in a green shade)」という庭文学史上最も有名な詩句はマーヴェルの『庭』という名作中の一行です。問題は厭世の作家トマス・ブラウンの『壺葬論』(1658)からこの『庭』(1681)にかけてのイギリスです。
 イギリスの国民的大詩人が両者ともに閉ざされた空間をこよなく愛し、外の世界はいかにつらいかを詠じる詩に没頭したことは、現象として問題にしなくてはなりません。
 イギリスに限らず、「庭」といえば閉ざされた世界に気心のしれた人間だけがいて、厭わしいものは何一つないという場所の象徴なのです。ラテン語で「場所」をロクスといい、「ローカル」という語などそこから出てくる。それで庭のような甘美な場所を「ロクス・アモエントゥス(locus amoenthus)」といいました。(高山宏鈴木成文監修〕『表象の芸術工学 神戸芸術工科大学レクチャーシリーズ』工作舎/2002年/p.98-99)

2人の女性は、手を取り合い、抱き合い、唇を重ね合う。その接触の感覚は、表面に表された皺によって強調される。

 スクリーン上の役者の触れ合いの演技を見て、まるで自分の肌が撫でられているように反応することができるという事態は、脳の島皮質後部が受け取る信号によるものだ。島皮質後部は愛撫によって活性化する中心的な領野であり、情動の中枢でもある。島皮質後部には、C触覚繊維からの信号だけでなく、高度に処理された視覚情報も送られてくる。驚くべきことに、島皮質後部は、誰かの腕に撫でられている映像を見るだけで、自分の腕が実際に撫でられたときと同じように活動する。さらに驚愕すべき事実は、実際に撫でられる場合と同じように、映像で見る場合にも、速すぎもせず遅すぎもしない、適切な速さで腕を撫でられる映像を見たとき、島皮質後部は最も強く活動するということである。映像を見た人が報告する心地よさも、適切な速さの映像のときが最も強かった。C触覚繊維を欠くノルボッテンの無痛症患者にこの映像を見せると、対照群の被験者に比べて感じる快感が有意に低く、撫でる速さもほとんど評価に関係しなかった。つまり、健常な被験者も無痛症患者も、映像を見たときの快感の評価は、実際に撫でられた場合と同じ形だったと言うことだ。
 私達人間は、実際に触れられる経験をする場合だけで無く、他人が触れられているのを見るときにも、触覚の感情的な面において重要な役割を果たしている機能を利用しているのである。人間は、他人同士の間に交わされる信号に、非常に敏感にできている。(デイヴィッド・J・リンデン〔岩坂彰〕『触れることの科学 なぜ感じるのか どう感じるのか』河出書房新社河出文庫〕/2019年/p.129-130)

また2人が強く求め合う様子を表すためか、女性の首は長く引き延ばされている。とりわけ、《ワルツ#4》では、長い首に加え、赤い髪の女性が青い髪の女性の頭に触れる手(腕)が体に繋がっていないかのように画面左下から右上に向かって真っ直ぐに伸ばされている。半身像の全面にワイパーとように取り付けられた腕が印象的な、舟越桂の彫刻《遅い振り子》などを連想させる。もっとも、2人の人物の頭頂部をそれぞれ頂点として画面の下端を底辺とする鋭角2等辺三角形が2つ並ぶような構図が生み出す安定感と、画面を覆う植物と鏤められた白い楕円がモティーフを曖昧にする働きとによって、デフォルマシオンが取り立てて奇異に映ることはない。《ワルツ#7》では、口づけを交わす2人の顔が、ジグソーパズルのピースが塡まるような一体感をもって表される。抱き合う2人が不可分に表された、コンスタンティンブランクーシの《接吻》を思わせるものがある。《ワルツ#8》では、赤い髪の女性がおそらく去ってしまった青い髪の女性を思って1人青い涙をこぼす。その対になるであろう《ワルツ#9》では、青い髪の女性のお下げに赤い髪の女性を象徴する赤いリボンが蝶結びなっていて、彼女は目を伏せ胸に手を当てて赤髪の女性に思いを馳せている。《ワルツ#11》では、青い髪の女性はショートカットとなった姿を現し、赤い髪の女性への思いを断ち切った心の裡が窺える。1階に展示されている小品では、絡み合う舌、口から垂れる唾液、膝まで降ろされたショーツなど、よりエロティックな描写が見られる。それらを踏まえれば「花びらのワルツ」に貝合わせの暗示を読み取るべきかもしれない。