可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 AKI INOMATA個展『彫刻のつくりかた』

展覧会『CAFAA 2020-2021 Exhibition AKI INOMATA「彫刻のつくりかた」』を鑑賞しての備忘録
現代芸術振興財団(CAF)事務局にて、2021年6月1日~14日。

2013年に創設され、3回目となる「CAFAA(CAF ARTIST AWARD)」の最終選考のために開催される、一次選考通過者3名による個展シリーズの第1弾。ビーバーが齧った角材とそれを模刻した作品などから成る、AKI INOMATAの作品展。

会場には、通路に面したガラスの壁面にある扉から入る。入口の傍には、通路(ガラス壁面)に対し斜めに白い壁が立てられて、ビーバーの頭骨の白色のレプリカが、地面から1メートル強の位置に突き刺さした棒の先に掲げられ、その下に藁屑のようなものが撒かれ、それらの右手には、3本の角材が壁に立てかけられている。ビーバー(=頭骨)が囓って(=藁屑)、「彫刻」(角材)を作ったことを示すものだ。斜めに設置された壁面の裏に回ると、コンクリートの平板を敷き詰めた床に、ビーバーが囓った角材《囓られた木》が7点並べられている。囓り跡からは円空の木端仏を、縊れた造形からはコンスタンティンブランクーシの彫刻などを連想させるのは、床と同じコンクリート平板を台座のように設置しているからでもあろう。壁面には、角材が設置されたビーバーの飼育場の記録写真が飾られている。1つだけ壁面に設置された台座に飾られているのは、カミキリムシの幼虫が巣くって穴を開けたもの。内部の構造を紹介するエックス線写真も併せて展示されている。ガラス壁面の向かい側の壁面に立てかけられた像高70㎝の作品《彫られた木》は、黒川弘毅のブロンズ彫刻に見られそうな(?)造形であるが、ビーバーが囓った角材の模造品であり、床に寝かされている像高161㎝の作品《彫られた木》とともに手彫りである。ガラスの壁面の傍に設置された3点《CNC切削された木》は、ビーバーの囓った角材を3Dスキャンによってデータ化し、それをもとに機械が自動的に削り出したもの。データを少しずつなぞるように入れられた刃の跡は像の表面に細かな線を密に並べてみせ、像高161㎝の《彫られた木》の周囲に撒かれている荒々しい木屑とは対照的である。《囓られた木》、《彫られた木》、《CNC切削された木》を繫ぐのは、「制作」現場で採録された環境音である。

《彫られた木》は人の手によって、《CNC切削された木》は機械を用いて、と手段は異なるが、作家がビーバーの囓った角材を再現しようと制作されている点で共通する。

 ところが、デュシャンが提案したレディ・メイドでは、どのオブジェ(日用品や器具)を選ぶかという「選択」が最優先されていて、「偶然」はそれほど意識されていないのである。(略)
 この点については、谷川渥による次の指摘が示唆に富んでいる。

 レディメイドとは、なによりもまず選ぶことである。デュシャンにとっては、絵を描くこともまた選ぶことにほかならかった。それは、青絵具のチューブを、赤い絵具のチューブを選ぶことなのである。そしてそれらのチューブは、レディメイド以外のものではない。絵を描くことは、レディメイドを選ぶことであり、したがって逆に、レディメイドを選ぶことは一種の絵画制作でもあるということになろう。

 レディ・メイドの場合の選択が、画家が絵具や画材を選ぶように、「一種の絵画制作」の選択となるという谷川の指摘は、「目を悦ばせるのは、「網膜の」画家たちの仕事で、〔1912年頃の〕デュシャンはそれとはすっかり縁を切ろうとしている最中だった」というトムキンズのよく知られた記述に照らせば、レディ・メイドの提案が網膜的絵画とは異質な次元の「絵画」の企てにつながることを意味しているだろう。(塚原史ダダイズム 世界をつなぐ芸術運動』岩波書店〔岩波現代全書〕/2018年/p.131-132)

仮にこれらが芸術作品(彫刻)であるとして、それらの「原作」に当たるビーバーが囓った角材《囓られた木》は「彫刻」であろうか。《彫られた木》や《CNC切削された木》とは異なって、作者は完成時のイメージを(少なくとも正確には)捉えることができない。もっとも、ビーバーに角材を囓らせることで立体作品を作るという明確な意思は存在する。また、そもそも絵画や彫刻においても、事前に作者が想定したイメージを100パーセント実現できるとは限らないだろう。ましてや陶芸なら、窯の中での変化をコントロールするのはより難しい。それならば、作者が大まかな完成形を想定し、ビーバーの飼育場に材料を設置し、ビーバーの行動に委ねることは、実際のビーバーの囓り方を除けば、作家の支配下にあるのだから、ビーバーを「制作道具」とした彫刻作品と言えるだろう。そして、厳密には一つ一つの生育状況が異なる点は捨象して角材を大量生産品として捉えたとしても(なお、作家自身は木の節の位置などにも注目しているため、個々の角材の個性を斟酌する立場をとるものと解される)、ある角材に対するビーバーの囓った跡(すなわち造形)はユニークなものであるから、レディ・メイド(≒既製品)ではなく「オリジナル」の彫刻作品と言って良いだろう。
ビーバーが囓った角材《囓られた木》が「オリジナル」であるとして、それらを3Dスキャナーでデータを採り、コンピュータ制御で自動的に削り出した《CNC切削された木》は、「オリジナル」と言えるのか。オーギュスト・ロダンのブロンズ作品を「オリジナル」と言えるのなら、それとパラレルに解される以上、肯定して良かろう。

 しかし、ヴァルター・ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」以来われわれが絶えずみずからに言いきかせてきたように、本来マルティプル(複数的)な媒体に向かうとき、真正性は空疎な概念となる。ベンヤミンはこう論じた、「たとえば写真のネガからは、いくらでもプリントを作ることができるのであって、〈真正〉のプリントを求めることにはなんの意味もない」。ロダンにとって「真正のブロンズ鋳造品」の概念は、多くの写真家にとってと同様ほとんど意味をなさなかったように見える。いくつかのケースにおいて生前のプリントが存在しないアジェの数千のガラス乾板と同様、ロダンは幾多の石膏像を、ブロンズであれ大理石であれいかなる恒久的な素材にも移さないまま残している。自分自身の写真を決してプリントしなかったカルティエ=ブレソン同様、ロダンが自分の彫刻の鋳造に対してとった関係は、疎遠だったと言うほかはない。鋳造の多くは鋳造所で行われたが、その製作中にロダンは一度も姿を現さなかったし、最終的なブロンズを鋳造するための蝋型の製作にもノータッチで、後から手を加えることもなかった。また、仕上げもパティネーション(着色)も、彼は監督したり調整したりすることは決してなかったのであり、そしてつまるところ、購入した顧客ないしは画商のもとに作品が箱に詰めて発送される前に、一度もチェックしなかった。複製技術のエートスの深部にある彼の立場からすれば、自作の死後の著作権を自国に遺贈したことは、われわれが思うほどロダンにとって奇妙なことではなかったのである。
 ロダンが浸っていた複製のエートスは、もちろん、鋳造所でのどちらかといえば技術上の問題に限定されるものではなかった。それは、大量の石膏粉末――リルケに言わせれば眩いばかりの雪――にまみれて、まさしくロダンの工房の壁の内側に居座っていた。というのも、ロダンの製作の核をなす石膏原型は、それ自体、型取られたものでもあるからだ。それらは、それゆえ潜在的マルティプルである。そしてロダンの大量の制作活動の核に、このマルティプリシティ(複数性)から生じる構造的増殖があるのだ。(ロザリンド・E・クラウス〔谷川渥・小西信之〕『アヴァンギャルドのオリジナリティ モダニズムの神話』月曜社/2021年/p.229-230)