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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 チョン・ダウン個展『ドッぺルゲンガーノート』

展覧会『チョン・ダウン展「ドッぺルゲンガーノート」』を鑑賞しての備忘録
ギャラリーなつかにて、2021年6月21日~7月3日。

「版画が作り出したイメージをドッペルゲンガーに置き換えて、オリジナルと複製の関係について考えてみる」ことをテーマに掲げた、チョン・ダウンの銅版画展。約60点の作品で構成される。

版画の版と、刷られたイメージとは、実像とその鏡像との関係に比せられる。「ドッペルゲンガーに会うと本人は死ぬ」と言われるのは、実像が鏡と接した(距離がゼロになった)とき、イメージが消え去る(見ることができなくなる)からであろうか。例えば、ナルキッソスが水面に映る自身の姿に口付けをしようとして水死したというエピソードも、その関係を表すのであろう。物質と反物質の衝突による対消滅にも擬えられる関係かも知れない。

出展作品中最大の画面を持つ《自勝者強》(2021)は、白馬に跨がった甲冑を身につけマントを翻す人物(頭部に光輪のようなものが描かれているので聖人であろうか)が、左手で握る長い剣を自らの影に刺している。その影は馬の後ろ肢からエクトプラズムのように延びているのが面白い(《img with the chair》など、影の形態に特徴がある作品は多い)。自身の影も、分身という点でドッペルゲンガーに等しいと言える。
対となる作品《逃げるもの》(2021)と《追いかけるもの》(2021)では、「逃げるもの」と「追いかけるもの」との間に1つだけ、後者から前者に向けて魂が抜け出していっているような影がある(「逃げるもの」の頭部に纏わり付く影も印象的)。主人公が同姓同名の男との腐れ縁を1人語りする、エドガー・アラン・ポーの「ウィリアム・ウィルソン」を思わせる作品である(なお、《壁の向こう》には、壁をハンマーでたたき割った先に肖像画が掲げられている様子が描かれており、ポーの「黒猫」を連想してしまう)。

 とはいえ、わたしの逃避行は無駄に終わった。わが宿敵はあたかも勝ち誇ったかのようにあとから追いかけ回し、そしてその不可思議な勝利がまだ序の口にすぎないことを証明してみせたのだ。なにしろパリに到着するやいなや、かれがまたぞろわたしの領分におぞましくも介入してきたことを確認してしまったのだから。長い歳月が過ぎ去ったが、一度として心休まるときはない。この凶悪犯め! ローマではいかにも悪いタイミングを狙ったかのごとく、あたかも妖怪のごとくどこにでも立ちはだかり、わたしの野望を挫くのだ。ウィーンでもそうであったし、ベルリンでもモスクワでもそうだ。それらどの町においても、わたしは彼を心から呪うだけの切実なる理由があった。その不可解なる圧力より、命からがら逃げるときには、あたかも疫病から逃れるかのような気分だったものである。そしてわたしはとうとう、地の果てまで逃避行を続けたものの、すべて無駄に終わった。(エドガー・アラン・ポー〔𢁌孝之〕『黒猫・アッシャー家の崩壊 ポー短篇集Ⅰ ゴシック編』新潮社〔新潮文庫〕/2009年/p.146-147)

《映画館にて》(2021)では、追う者と追われる者とのシルエットを見ている、映画館の客席に1人座る、立体視用の眼鏡をかけた男が描かれる。客席の背後には影に対応するシーンが具体的に描き込まれているが、男は振り返ることなく影だけを見つめていることから、プラトンの洞窟の比喩の寓意と考えられる(エドゥアール・マネの《草上の昼食》を下敷きにした《見ていることは見ていないこと》と題された出展されている)。

 善のイデアは、もともと「哲学者が学ぶべき最大のもの」として提示されていた。善のイデアを学び知るためのプロセスについては、まず「洞窟の比喩」が多くの鮮明なイメージを与えている。ソクラテスは「教育と無教育ということに関連した、われわれの人間の本性」の描写であると告げてこの比喩を語り始める。この「教育」と訳される「パイデイア」という言葉は、躾から教養やぶんかを含めた人間形成の営みを表しうる言葉である。
 この比喩によれば、人びとは地下の洞窟のなかに囚われ、洞窟の壁だけを見るように頭も拘束されている。その人びとの背後には火が燃えていて、さらにこの火と囚人たちの間には衝立があり、その衝立の上を、見世物の操り人形のように、さまざまな事物が運ばれていく。囚人たちが目にできるのは洞窟の壁に映ったこうした事物の影だけである。そのため彼らは、それを実物と思いこんで暮らしている。
 この描写は、イデア論が示すわれわれの日常の知的状態と一致する。感覚知覚から得られる世界のありさまがそのまま物事の真の姿であると信じ、その原物であり基準であるイデアの存在に思い至ることがない。
 ただし、「洞窟の比喩」の描き方は、より深刻である。洞窟の囚人たちは洞窟の壁に映る影だけを見るように拘束されており、そのままでは洞窟の外の世界を見る可能性が与えられていないからだ。つまり外の世界の実物に譬えられるイデア、そして太陽に譬えられている善のイデアへと至る道程は、囚人たちには見えていないのである。
 そのため囚人たちにとっては「知者」とされる人も、じつはその壁面に映し出される影の現れ方をあれこれ推測できる者にすぎない。そのような人を知者と評価することで、本来の知への道は、かえってとざされてしまうだろう。われわれ囚人たちは外部のない思考や生活を営んでいるのである。(中畑正志『はじめてのプラトン 批判と変革の哲学』講談社講談社現代新書〕/2021年/p.191-191)

展覧会のタイトルは「ドッぺルゲンガーノート」であり、楽器を手にするジャズ・ミュージシャンを描いたその名も「note」のシリーズを始め、作品の多くは、無地ではなく、大学「ノート」の罫線に表されている。恰もアイデアの覚書(note, caiher)をそのまま作品として提示するかのような構造には、版と刷られるイメージとのアナロジーを提示しようとの意思が窺える。