展覧会『目「まさゆめ」』を鑑賞しての備忘録
東京都心にて、2021年7月16日。
ある人物の頭部を表した気球を都心で浮かべる、荒神明香・南川憲二・増井宏文を中心としたグループ「目」によるプロジェクト。
気球で作られた頭部が浮上するとは、立ち上がることを模している。それと同時に、横並びに対する意識が強い社会で、周囲から文字通り「浮く」ことでもある。
平等の価値と、自由の価値とは相容れない面がある。一人一人の価値が平等なら、より多数の人が支持するものがより大きな力を持つという結論に帰結しやすい。とりわけ表現において自由の尊重が強く要請されるのは、多数の人が必ずしも支持しない価値を許容するためだ。表現を広く許容できる社会は、多様性を有する結果、既存の仕組みや主流の考え方が行き詰まったときなど、その危機を乗り越えて持続する力を持つことになるだろう。
「今日の芸術は、うまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。」という岡本太郎の言葉がある(岡本太郎『今日の芸術 時代を創造するものは誰か』光文社〔光文社文庫〕/1999年/p.98以下参照)。それは、禁止規範の体裁を持つ鋭いメッセージである。この言葉をソフトに解釈してみると。例えば、芸術は、必ずしも多数の人が「うまい」とか「きれい」とか「心地よい」とか思うものでなくともよい、と捉えられよう。
人物の頭部を表した気球は、クリストとジャンヌ=クロードの行った議事堂の梱包のように、見慣れた光景を一変させた。「首吊り気球」のようだと捉える人もあったそうで、「目」による「まさゆめ」プロジェクトで浮かせた気球は、「きれい」とか「心地よい」とか思うものでなはかったかもしれない(会場では、気球が膨らんで顔が次第に姿を現すのを面白がりながら、完成した顔を恐れる幼い子供の姿もあり、微笑ましかった)。だが、ふらふらとよろめきながらも一人立ち上がった「人物」は、社会を俯瞰して、今日の芸術の意義を訴えようとしていた。公共空間を舞台にして行われ、多くの人の目に触れるプロジェクトは、当然、否定的な評価も織り込み済みであり、多様な意見が出されることこそ狙われていただろう。異なる意見にも耳を傾ける姿勢こそ、理想社会の構想を「まさゆめ」とする一里塚である。