可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 片山高志個展『矩形の庭』

展覧会『片山高志個展「矩形の庭」』を鑑賞しての備忘録
銀座蔦屋書店アートウォールギャラリーにて、2021年7月17日~8月6日。

「矩形の庭」としての絵画によって構成される片山高志の個展。

大きい画面(652mm×803mm)の《rectangle》は、艶やかな表面を持つために磨かれた黒い大理石のようにも見える背景に、10本(2本は見える位置に存在しない)の白い直線で直方体に切り取られた山塊をモノクロームで表した作品。飼育ケースか水槽のような直方体はディスプレイを、断面を見せる山塊が表すのは、断片化して取り出された情報を、茫漠として全てを包み込む周囲の光景は「ネット」の表象のようだ。

 数ブロック走らせたあと、ランダルは一人の警官が舗道に立って日なたぼっこをしながら、空地で蹴球をやっている少年たちを眺めているのに気がついた。かれはそのそばに車を寄せた。
 「窓を下ろしてくれ、シン」
 彼女はそれに従い、それから激しく息を吸いこみ、悲鳴を呑みこんだ。かれも悲鳴をあげはしなかったが、そうしたいところだった。
 開いた窓の外には、太陽の光もなく、警官の姿もなく、子供たちもおらず―何もなしだった。
 生きているもののしるしなく、ただ灰色の形もない霧がゆっくりちうごめいているだけなのだ。その霧を通して町の姿は見えなかった。霧が濃すぎるからではなく――空虚そのものしか存在していなかったからなのだ。その中からなんの音も響いてこず、その中には何物も動いていなかった。(ロバート.A.ハインライン矢野徹〕「ジョナサン・ホーグ氏の不愉快な職業」『輪廻の蛇』早川書房〔ハヤカワ文庫〕/2015年/p.243)

小さい画面(242mm×333mm)の《rectangle》には、トンネル内にある漏水しているコンクリートの壁面のような背景に、直方体を成す10本(2本は見える位置に存在しない)の白線で切り出された土地が描かれている。表土は草(芝?)で覆われ、左右を半々に分ける位置に白い壁が立ち、左側の土地に立つ木は枝葉を右の土地へと伸ばしている。白いが壁が画面の中で際立つのは、黒中心の画面で白いベタ塗りの面であることに加え、草木が写実的描写に対し、輪郭線だけの「イラスト」的表現であることによる。「壁」は、例えば国境のような、世界を分断する想像の産物なのだろう。だが「白い壁」から影が伸び、樹木がそれを避けて生長するように、想像の産物が現実を規定する。あるいは、より一般化すれば、「白い壁」は、世界を切り分ける言葉であるかもしれない。意味を求めて切り分ける人間の営為と、常にそれを超えていく現実の表象である。

《empty》には、画面(652mm×530mm)の中央よりやや低い位置に水平線と島影があり、その上は漆黒に塗られ、その下には波間が表されている。水面には、コンクリートの壁面で囲われた正方形の人工島があり、草木が隙間無く繁茂している。その中央には、屋外広告・看板のようなもので覆われたペンシル状の建物が立つ。人工島の護岸や植物が写実的に表現されているために、輪郭線のみで表されて何も描き入れられていない看板の空虚さが目を引く。うち捨てられた人工島のテナントの入らないビルは、空虚な中心を持つ極東の島国の揶揄であろうか(《stepping stone》参照)。あるいは、SNSに繋がりを求める個人の姿であろうか。

「anomaly」と銘打ったシリーズ6点(いずれも273mm×220mm)には、黒く長い羽を用いたバドミントンのシャトル、向きがバラバラの実が数段に渡って付いているバナナの房、マウリッツ・エッシャーの騙し絵のような家の図形、支柱が見えないほど植物のまとわりついた信号機、絡まった端のない縄、数多くの疑似餌の付いた釣り針が、白あるいは黒の背景に表されている。タイトル通り、イメージに「異常」を見るなら、描かれていない"norm"としての矩形の枠組みが鑑賞者に存在するゆえである。

《stpping stone》は、画面(970mm×1303mm)に、複数の矩形のイメージを描き入れ、あるいは矩形の画面を貼り付けて構成された、「貼交屏風」のような作品。絡まる端のない縄、椰子の木、海面、極東の弧状列島、無人の車、行き止まりの車道の先のビルボードと、「踏み石」である大きさの異なる3つの石のイメージとが組み合わされている。絡まる繋ぎ目のない縄、運転手を欠いた車の暴走、行き止まりの道などと弧状列島のイメージの並列は、極東の島国の置かれた状況を暗示するようである。「踏み石」の存在は、境界を軽やかに飛び越える想像力を、すなわちリニア=「線」の思考を脱して離散的、飛び石の思考を促す。