可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 中塚文菜個展『清潔な窓』

展覧会『中塚文菜「清潔な窓」』を鑑賞しての備忘録
Room_412にて、2021年7月18日~25日。

中塚文菜の個展。全6点で構成。

最初に目に入るのは、白い壁に立てかけられた木枠である。縦5本・横4本の板がF200号(1940mm×2590mm)のサイズに組まれているが、画布は貼られていない。床には、木枠の最下段の板に沿って、木屑がこんもりとした塊となって落ちている。木枠を見ると、削り取られた跡に蜜蝋が埋めているのが分かる。

 約600年の昔、イタリア・ルネサンス人文主義者、レオン・バッティスタ・アルベルティは、著書『絵画論』(1436)の中で、絵画と窓について次のように述べました。
 「私は自分が描きたいと思うだけの大きさの四角のわく〔方形〕を引く。これを私は、描こうとするものを通して見るための開いた窓であるとみなそう」
 窓は、室内にいるわたしたちに、四角い枠に囲われた外の世界の眺めをもたらしてくれるもの。絵画もまた、「今ここ」にいるわたしたちに、四角い枠に囲われた「ここではない世界」の眺めをもたらしてくれるもの。アルベルティが「絵画=窓」と簡潔に定義して以来、数えきれない画家たちが窓にインスピレーションを受けて作品を制作してきました。(東京国立近代美術館『窓展:窓をめぐるアートと建築の旅』平凡社/2019年/p.10〔蔵屋美香〕)

本展についてのステートメントによれば、作家にとって「絵画」は「憧れ」と「怒り」の対象であり、「絵画と正しく向き合うことができるまで」、「分解」と「再構築」を継続すると言う。F200号の木枠の作品も、「絵画」の「分解」と「再構築」の実験の1つなのだ。そして、「絵画=窓」であるなら、展覧会タイトルの「清潔な窓」とは、「理想的な絵画」を意味することになる。作家のステートメントには、「窓を触らせて欲しい」ともあるが、それは「理想的な絵画」探究の宣言であろう。
F200号の木枠は、絵画の総体を表すのかもしれない。1つには、木枠と床の木屑との関係が、物事の総体を表現しようとした高松次郎《木の単体》を想起させるからである。また1つには、縦5本・横4本の木片が構成する12の「四角のわく」(≒絵画)こそが提示されるイメージであり、「論理的に言えば、グリッドはあらゆる方向に無限に広がる」(ロザリンド・E・クラウス〔谷川渥・小西信之〕『アヴァンギャルドのオリジナリティ モダニズムの神話』月曜社/2021年/p.35)からである。木枠に刻まれた溝とそれに塗り込められた蜜蝋は絵画に対する毀誉褒貶を表し、それに対して木枠が壁に作る影に、無缺の絵画の「イデア」を見ることができないだろうか。目の前の「傷」だらけの木枠に対し、「影」に「傷」は存在しないからだ。そして、現実には「傷」のない実体=木枠が存在しない(「反実在」)がゆえに、それこそが絵画の「イデア」と言えるのである。会場の隅に展示されている白いネオン管で表した"no"も「反実在」に言及するかのようである。

F50号(910mm×1167mm)のサイズに組んだ縦4本・横2本の板が壁面に架けられている。その木枠は削られて、その結果出来た溝を蜜蝋が埋めるとともに、削り屑が床に落とされている。F200号の木枠の作品と異なるのは、木枠が透けて見える極薄い綿布が張られていることである。綿布には蜜蝋が染み出し、染みなかった部分が不定形のイメージを作っている。榎倉康二が廃油やアクリル塗料を塗布した木材を画布に押し当てて染みによるイメージを作り、木材とともに提示した作品を想起させる。榎倉作品が凸版とすれば、作家の作品は凹版だ。作家が木屑とともに展示するのは、「絵画」として「流通」することを拒む仕掛けを目論んでのことだろう。