可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『ドライブ・マイ・カー』

映画『ドライブ・マイ・カー』を鑑賞しての備忘録
2021年製作の日本映画。179分。
監督は、濱口竜介
原作は、村上春樹の小説「ドライブ・マイ・カー」。
脚本は、濱口竜介と大江崇允。
撮影は、四宮秀俊。
編集は、山崎梓。

 

わずかに明るくなった空の下で、街が姿を現し始めている。都内のマンションの寝室で、家福悠介(西島秀俊)がベッドに横たわっている。その足下に座る妻の音(霧島れいか)の表情は、窓を背にしているため影となって見えない。音がやおら物語を語り始める。少女は学校を早退して、思いを寄せる同級生の男の子の家に向かう。サラリーマンと教師をしている彼の両親は不在で、少女は家の前の植木鉢の下を探って鍵を見付けると、家の中へ。背番号の入ったユニフォームの掛かった彼の部屋に足を踏み入れると、少女はその空気を嗅ぐ。一通り物色し終えた少女はベッドに横たわり、自慰行為に及ぼうとして自制する。自分の居た証としてタンポンを机の中にしまい、ペン立ての鉛筆1本を失敬する。夜の営みの後、ときに語り出すストーリーを、語った当人はほとんど覚えていなかった。音は目覚めた後に悠介から自分の物語を聞き出し、スマートフォンにメモして、脚本を執筆していた。テレビドラマで使えるの? 深夜帯だし攻めた内容でも大丈夫。悠介は赤いサーブ900ターボで妻をテレビ局へ送る。何時からだっけ? 18時半、開場は18時。ギリギリになるかも。無理することないよ。『ゴドーを待ちながら』の舞台。悠介演じるウラジミールが日本語で語りかけると、エストラゴン役は外国語(インドネシア語?)で応答する。終演後、悠介の楽屋を音が訪ねる。音は自分が脚本を手懸けたドラマに出演した高槻耕史(岡田将生)を悠介に紹介する。夫の芝居を見に行くと言ったら興味を持って付いてきたという。高槻は芝居に感じるものがあったと言い、音も嬉しそうにしている。悠介は着替えるからと言って2人を退出させる。早朝、悠介がトランクに着替えを詰めている。演劇祭で審査員を務めるため、1週間ほどウラジオストックに滞在することになっていた。ソファで眠っていた妻に毛布をかけると、音は目を覚ます。起こしちゃったね、成田9時だから行くよ。音は玄関まで夫を見送る。愛車に乗り込んだ悠介は、音の吹き込んだ『ワーニャ伯父さん』のカセットテープを再生する。ワーニャのセリフが入る部分には間があり、悠介がワーニャのセリフを練習できるようになっている。成田の駐車場に着いた悠介に主催者からのメールが入る。ウラジオストックの空港が悪天候で閉鎖されているので成田空港のホテルで待機して欲しい。悠介は家へ車を走らせる。ドアを開けると、音が憚ること無く嬌声を上げている。妻は高槻を連れ込んでいた。その晩、成田のホテルに宿泊した悠介は、音からの連絡でビデオ通話をする。ホテルはどう? どこのホテルも変わらないよ。ウラジオストックの名物は食べた? 名物って何があるの? こっちが聞きたいの。演劇祭から帰国した悠介は、車を走らせていて衝突事故を起こす。悠介が病院のベンチに腰掛けていると、心配した音が駆けつけた。何も無かったのね? まだ精密検査の結果は出てないんだ。夫妻を前に、医師は左目の緑内障との検査結果を伝える。片目が見えるから症状に気付きづらいんです。不幸中の幸いでしたね。自動車は運転できますよね? 出来ないことはないです。ただ、緑内障は治療と言っても進行を遅らせることしかできないのでね、眼圧を下げる目薬を1日2回必ずさしてください。娘の命日は雨が降った。寺で法要を行う。十数年の月日が流れ去っても、遺影の娘は幼い姿のままだった。やっと修理が終わったから運転したかった? 君のことは全て愛しているけれど、運転だけは例外だな、今のタイミングで車線変更しないなんて…。2人目、欲しかった? あの子の代わりにはならないよ。同じくらい愛せたかもしれない…。君が望まないものを僕は望まないよ。帰宅すると、悠介は音を後ろから抱き締める。行為の後、音が語り始める。少女が男の子の家を繰り返し、ある日、少女はベッドで匂いを嗅ぐと、自慰を始めてしまう。そこへ扉が開く音がして、誰かが階段を上ってきた…。翌朝、音から物語について尋ねられると、悠介はあまり覚えていないと答えた。それなら、その程度のストーリーだったってことね。出かけるの? 言ってなかったっけ? ワークショップがあるんだ。玄関まで見送りに出た音は、今晩話があるのと悠介に改まった調子で伝えた。悠介が帰宅したのは深夜だった。部屋の明かりは消えていた。自動車の鍵を置いて、明かりを点けると、床に音が倒れていた。

家福悠介(西島秀俊)は、娘の死をきっかけに、テレビから舞台に活動の場を移し、俳優や演出家として活動していた。女優をしていた妻の音(霧島れいか)も、娘を失ってから脚本家に転身していた。悠介は妻の不倫に気が付いていたが、それを咎めることはなかった。ある日、妻から今晩話があると告げられた悠介は、帰宅して妻が倒れているのに気が付く。蜘蛛膜下出血による急死だった。2年後、アントン・チェーホフの『ワーニャ伯父さん』の演出を依頼された悠介は、2ヶ月間の滞在制作のために広島に向かう。

 

以下、全篇について触れる。

家福悠介(西島秀俊)がワーニャのセリフを覚えるために妻の音(霧島れいか)にカセットテープに吹き込ませた『ワーニャ伯父さん』の台本の音声を、悠介は車を運転しながらかける。そして、テープの間(≒スペース)に合わせてワーニャのセリフを口にする。その音声とセリフとは、悠介の置かれた状況を物語っている。
悠介の愛車である赤いサーブ900ターボは、悠介が1人になれるスペースであるとともに、悠介を象徴する。衝突事故は彼の人生が暗礁に乗り上げることを暗示し、音が運転した際、悠介の望む車線変更ができないのは、子供をめぐる夫婦の考え方の食い違いをそのまま示している。
車や(悠介が2ヶ月間滞在する住居のある)島は、殻に閉じ籠もった悠介の姿を嘲笑している。車に他人を受け容れ、車で橋を渡る中で、悠介の殻が破られていく。
悠介の愛車の運転を代行する渡利みさき(三浦透子)には、『ワーニャ伯父さん』のソーニャとしての役割が重ねられている。みさきが悠介を乗せて運転するのは、ソーニャがワーニャを導くことを示している。
ゴドーを待ちながら』で示される通り、家福悠介は、役者の母語を活かし、別々の言語のセリフで舞台を上演する。広島での『ワーニャ伯父さん』でも、日本語、中国語、韓国語、フィリピン語(?)、手話(韓国語)によってセリフが語られる。ところで、悠介と音とは日本語話者であり、共通の言語を「話せば分かる」という強い期待が生じながら、実際には、苦しかったり、つらかったりしたことを話さないまま、永遠の別れを迎えてしまう。コン・ユンス(ジン・デヨン)とイ・ユナ(パク・ユリム)の夫婦の場合、ユナは声を発することができない(手話を用いる)。言葉が伝わらない状況を前提に、意思疎通が図られる。異なる言語間でのコミュニケーションは、言葉の持つ意味自体が伝わらないことを前提にするからこそ、かえってメタ・メッセージを介して意思疎通できる可能性が生じるし、それに賭けることができる(例えば、日本語話者である作家と韓国語話者とのコミュニケーションを描いた作品に、加藤翼の《言葉が通じない》(2014)がある)。多言語演劇はそのメタ・メッセージによるコミュニケーションの「開かれ」を目指すものだ。
広島での『ワーニャ伯父さん』の稽古では、感情を交えずにセリフを読む「本読み」が繰り返される。途中、ジャニス・チャン(ソニア・ユアン)が演出の悠介に対して「ロボットじゃない」と訴える場面がある。ロボット(「読み上げ」のプログラム)ならば何度でも同じ音が発せられるだろう。そこに感情は入っておらず、文字だけが浮上する。だが、人間の場合、同じセリフでも、毎回正確に同じ調子で読むことは難しい。必然的な揺らぎがメタ・メッセージとなる。また、文字列が染み込むことで、セリフがセリフでなくなっていく効果が期待できる。
『ワーニャ伯父さん』のラストは、ソーニャの手話で見せる。
みさきは母親から虐待される過程で母親を送迎するために運転技術を磨いていく。そして、生きるため、話しぶりから、話し手が嘘をついているかどうかを見抜けるようになったと主張する(高槻の話の真偽を悠介に指摘する際)。だが、母親にときに現れる少女としての人格が、精神的な病から生じるのか演技なのかを見抜くことはできなかった。
悠介とみさきとは、身内を殺してしまったという罪悪感を抱えるという共通点を持つ。
釜山(≒渡る、「渡利」)、赤い車(≒悠介)、犬(≒手話、ユナ)、韓国語(ユンス)。みさきはそれまでに体験したことを受け継ぎ、語り伝えていく存在であることが示される。それは、ほとんど言葉を発することの無かったみさきが、広島の清掃工場に悠介を連れて行き、原爆ドームとの関連を説明するエピソードに予兆があった。
次々と展開する物語に巻き込まれるのみならず、様々な形で埋め込まれたメッセージの読み解きにも誘われるため、179分を感じさせない。