展覧会『第八次椿会 ツバキカイ 8 このあたらしい世界』を鑑賞しての備忘録
資生堂ギャラリーにて、2021年6月5日~8月29日。
戦後、資生堂ギャラリーの再開に際して誕生したグループ展「椿会」。今年から2023年までの3年間に渡り「第八次椿会」に参加する杉戸洋、中村竜治、Nerhol、ミヤギフトシ、宮永愛子、目が、2001年の第五次椿会以降に資生堂が収蔵した作品から「あたらしい世界」を予感させる作品を選び、それらに自作を取り合わせて展示する企画。
受付(エレヴェーター・ホール)から「ホワイト・キューブ」の展示室の奥へ向かって、高さ150cmほどの壁が増設されている。展示室の壁を高さだけを変えて延長した白い壁は、かつては澱として存在した意識が情報技術によって浮上・可視化されることで生み出した社会の分断を表わすようでもある。この壁は、中村竜治の《関係》という作品で、その壁の上には、壁を乗り越えてその先に広がる世界を見渡すような、内藤礼の小さな人物の彫像《ひと》が載せられている。《関係》の反対側に回ると、ギャラリーの壁面に飾られた、三輪美津子が描いた、1枚の女性の肖像写真を元にした連作――顔(《EBBA―No.9》)、顔のアップ(《EBBA―No.4》)、右目のアップ2枚と左目のアップ2枚(《EBBA―No.9》)――が見える。壁によって目が強調され、覗き見る印象が作られており、ジョージ・オーウェルの『1984年』の"Big Brother is watching you"を彷彿とさせる(目の《まさゆめ》も連想されよう)。監視カメラの存在が常態となった今日を象徴するようである。
畠山直哉《Findling-Klein Helgoland, Sassnitz, Rügen》はドイツのリューゲン島の海岸に佇む漂石(Findling)を捉えた写真。画面上端から5分の1程度の高い位置に水平線を置くことで、海面が壁のように立ち現れるようにも見え、中村竜治の《関係》との連なりを感じさせる。また、複数の水平線とは、視野(horizons, Horizonte)そのものだ。さらに、標石は、壁をモレーン(moraine)に見せるだろう。Nerhol《オニノゲシ》は壁に掛けられているものの、床に付かんばかりに低い位置に飾られている。それは、モティーフであるオニノゲシが地面に生える植物であることを示すとともに、氷河に運ばれた漂石同様、海外から「漂着」したこと(=外来種)を訴える。青木野枝の《水のとどまるところ》は、正方形の底面を持つ低い四角錐台にたこやき器のような穴が9つ穿たれている。その穴は水が留まるのを待っている。鑑賞者は水がその穴を満たした状況を思い描く。仮に水がその穴に流れ込んでも、蒸発してしまい、水が留まるのは一時的なことに過ぎない。宮永愛子のナフタリン製のメッセージボトル《Message 2019/2021》もまた昇華してその形を留めない。だが、変化(≒時間)こそが、メッセージを届けることを可能にする。水、氷河、ナフタリンという異なる速度で変化(≒移動)するものたち。漂石やオニノゲシの「漂流」を、ナフタリンは昇華によって高速度で再生して見せる。
杉戸洋の提示する火山岩らしき、沢山の穴の開いた石。それは水が蒸発する際に作った穴であり、自然が形成した《水のとどまるところ》である。4つが、大きい方から小さい方へと並べられ、遠くへと連なっていく。これらの石は《おきもの》と題されて提示されているが、赤瀬川原平の猫などの置物のコレクション(畠山直哉の写真《赤瀬川さんのアトリエ》より)同様、作家のもとに辿り着いた漂着物である。
目の《matter α #Ⅶ》は、橋本平八の《石に就て》で石を木彫で表わしたことを想起させる、石の模造である。限られた時間で料理の作成手順を紹介するテレビの料理番組のように、石を提示する。だが、それは、永田康祐が《Translation Zone》で紹介していた分子調理のようなものである。高速で制作された「出来上がり」の分子組成は同じでも、形成過程は異なる。解剖したカエルをいかに正確に縫合してもカエルが再び跳ねることのないように、そこには「蒸発」した何かがある。紙幣を模造しても、それは紙幣としては流通できないこと(赤瀬川原平《ハグ1》、《模造千円札Ⅲ)とパラレルである。