展覧会『花沢忍「あふれる」』を鑑賞しての備忘録
Bambinart Galleryにて、2021年8月21日~9月5日。
花沢忍の絵画12点を展観。
《満ちる》(2021)は、灰色の画面の中央に、黄や橙の花々を抱える人物を配した作品。花の咲き誇る庭の囲いのように大きく表わされる腕は、その輪郭線と肌を表わす白や黄の塗りを部分的に描かれているのみだが、画面中央下で組み合わされる手と、画面上段中央に表わされた顔とによって、十分に伝わるだけではなく、環境(世界)に溶け込む感覚を演出している。右上から左下へと落下していく効果線のように、身体の輪郭線や髪の毛、さらには「ひとがた」にも見える茎などの線が描かれている。それは、花々の表現とも相俟って、どこか刺繍を感じさせる。「花園」に入り込んだフィギュアのような人物も腕の内側に表わされている。画面左上には、二人の人物と、その手前に青い身体の「ダンサー」を描いたキャンヴァス(会場に展示されている《狂い咲きラヴ》(2020)と思われる。赤い花が咲き誇る中を、豊かな丸い旨を持つ青い肌で表わされた女性が、両手を上に向かって広げ、脚をスキーのパラレルターンのように曲げて踊る様を描く)が置かれている。それら浮遊(《ブラジル》(2021)でも、巨大な黄色い星の輝く夜空の中、画面の横から上半身を現す人物や、画面右上に倒立したパイナップルを描いている)や異時同図的表現(《プール》(2021)でも、向こう岸の人物や、画面の下端に対して斜めに配された人物を描く「画中画」が見られる)は、マルク・シャガールの世界に通じるものがある。
《ナイトダンス》(2020)は、夜空を背景に、白っぽいモスグリーンの肌をした豊満な女性が腕を振り上げ脚を捻って踊る姿を描いた作品。女性の首の太さ、メロンのような乳房、円を描くように表わされた脚は、表情のはっきりしない仮面のような顔と相俟って、土偶を想起させる量感を持つのに対し、真上に振り上げた左腕や右後方に伸ばした右腕はほっそりしている。背景(画面右側)の青い夜空には大きな黄色い星が浮かぶ。その下には、煙突を持つ方形造りの建物が佇んでいる。フィンセント・ファン・ゴッホの《夜のカフェテラス》の世界を背景に踊っているのかもしれない。画面右端には誰かの右足がわずかに覗いている。女性が小躍りするのは、その人物の来訪を受けてのことかもしれない。また、女性の右脇(画面左側)には目鼻を表わした仮面のようなものが2つ見える。それは仮面なのか、あるいは女性を見守る精霊なのか。なお、そのような連想が働くのは、《守護霊降臨》(2021)では、ジャングルのような植物の溢れる空間に、2人の人物が立ち、背の低い人物の背後には青いシャツの守護霊(?)がその背後を守り、背の低い人物の左手を摑んでいる背の高い人物の右腕の周囲には小さな人の顔がいくつか姿を現しているからである。
《自画像》(2011)は、灰色の画面に右手で髪をかき上げる人物の胸像。顔は左斜め前から捉えられている。輪郭線や髪はバックステッチのように、塗りは部分的で、間隔を開けたステムステッチのように表現されている。フィンセント・ファン・ゴッホの《灰色のフェルト帽の自画像》の描線が疎らになっているような表現と言えよう。顔の右奥にもう1つ鼻と唇とが見える。それが鑑賞者(画面正面)へと顔を左回転させる効果を生んでいる。髪の毛が後ろ上方へ向かって靡くように描かれているのは、胸像の周囲に、両腕を左右に広げて左下方向へ降下する「飛天」のような人物(画面右に4体、画面左に1体)と同調していることを表わすのだろう。画面に散るステムステッチのような描線とともに、画面の中に風を呼び込んでいる。
《身体性について》(2011)は、灰色の画面の下部に、両手両脚を大地に伸ばしてブリッジをした――否、ブリッジというよりも、胴体を天板としたテーブルのような姿勢と描写する方がふさわしい――裸の女性が多数描きこまれている。その腹の部分には、画面の上部を覆うように降ってくる、強風に飛ばされた草のようなものが刺さる。草は「ひとがた」のようでもあり、それが女性の腹に突き刺さるのは、受精ないし懐胎のメタファーであろうか。
《生きる》は、誰もいない郊外の車道で体を密着させる男女の姿を描く。カールした豊かな黒髪の男は、白い花柄の青いパンツを身につけただけで、日に焼けた上半身を晒し、両腕を女性の肩に回している。上下を黄色でまとめた茶色い髪の女性は顔を男性の頭に寄せ、やはり腕を男性の肩に回している。その密着感は、キスこそ交わしていないものの、コンスタンティン・ブランクーシの《接吻》を思わせるものがある。男性の黒い髪の毛の中に隠れるように描かれた小さな青いリンゴ(因みに、《守護霊降臨》や《プール》には蛇の描き込みがある)は、2人の背後にある道路脇の看板に、雲の下に"Im live in 2020"と書き込まれていることと相俟って、このカップルが楽園(奥に描かれた青いベンチがそのメタファー?)を追放されたこと(Paradise Lost)を示すようだ。傍らで微笑むような猫は、2人の行く末を温かく見守るだろう。
《馬》(2012)は、後ろ脚で立ち上がった馬が、ミロのヴィーナスらしき白い彫刻を左前脚で蹴り、頭部が外れた場面を描く。馬の背には、馬に比してかなり小さい人物が跨がっているが、イコノクラスムあるいはヴァンダリズムにも比せられるような馬の動作に面食らっているようだ。人馬の向こう側には驚く様子で見上げる黒い人物と彼に寄り添う赤い人物の姿もある。欲求に突き動かされた表現が、意図せず既存の価値感を揺るがす事態を表現しているのだろうか。ミロのヴィーナス以外にも、画面中央奥に三美神らしき彫像と、馬の後ろ脚の傍らに何かの彫刻が置かれている。
《sea》(2020)は、白と青とで乱雑に塗り込めた画面の右上に「海」と書き込んだ作品。画面中央にはトルソのようなイメージが白い絵の具によって塗り込められている。画面下部には、波を表わす線が引っ掻かれている。その辺りには、髪の毛が1本貼り付いている。「ウェーヴ」する髪の毛が波の表現に転用されているのだ。その存在を"hair"(ブロック体)という書き込みで強調している。筆記体に崩せば、作者の引いた波の線へ溶け込んでゆくだろう。