可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『先生、私の隣に座っていただけませんか?』

映画『先生、私の隣に座っていただけませんか?』を鑑賞しての備忘録
2021年製作の日本映画。119分。
監督・脚本は、堀江貴大
撮影は、平野礼。
編集は、佐藤崇。

 

都内のマンション。ペン先が紙を擦る音だけが響く室内。広いデスクでは、早川佐和子(黒木華)がマンガ原稿の仕上げに没頭していた。もう1つの小さいデスクでは、佐和子の夫・俊夫(柄本佑)がホワイトを入れている。2人の作業が終わるのを編集者の桜田千佳(奈緒)がテーブルでじっと待つ。お待たせしました。作業を終えた佐和子が原稿を千佳に渡す。遅くなってしまってすみません。もっと遅い先生ならいくらでもいらっしゃいますよ。俊夫も作業を終え、佐和子に目を通してもらう。佐和子がチェックした原稿を問題ないと千佳に回す。千佳が原稿に目を通す。校了です。お疲れ様でした。伏線もきちんと回収されてますし、素晴らしい最終回ですね。一息つくところですが、次の連載の話も追々させて下さいね。次はリアリティの作品に挑戦されてはいかがですか? 千佳は俊夫のことも労う。背景も素晴らしいです。先生の5年ぶりの新作も待ってますよ。4年だよ! 千佳を見送る佐和子は俊夫に駅まで送るよう頼む。かすかに戸惑いを見せる俊夫は押し黙って千佳とともに部屋を出て行く。少し間を置いて、2人の話し声が聞こえなくなると、佐和子はドアノブに手をかける。そのとき佐和子の背後で着信音が鳴る。佐和子が電話に出ると、母が事故に遭ったとの連絡だった。
佐和子は俊夫の車で実家に向かった。下條真由美(風吹ジュン)はリヴィング・ダイニングのテーブルで花の絵を描いているところだった。2人の到着に、真由美は杖をついて立ち上がる。大丈夫? 大したことないわ。私の部屋空いてるよね? 佐和子は2階へ上がる。送られてきた荷物は部屋に入れてあると真由美は娘に告げる。俊夫は義母を見るなり気遣って椅子を引いて座らせる。こいつも含めてお世話になります。俊夫はカメの入った水槽を示す。こちらこそ申し訳ないわ、こんな辺鄙なところに住まわせちゃって。仕事はどこでもできますから。3人が夕食を囲む。この芋煮、美味しいです。にこやかに食事をとる俊夫。私何で免許取らなかったんだっけ? マンガ読んでる方がいいとか何とか。食事が済み、リヴィングのソファで真由美がくつろいでいる。隣でマンガを読む娘に素晴らしい旦那さんで非の打ち所がないわと俊夫を褒める。佐和子の反応が今ひとつなので、いくつか可能性のある問題点を挙げていく。浮気性? そのとき娘の反応が違っていた。お先に入らせてもらいました、いいお湯でした。風呂上がりの俊夫が顔を出し、母娘の話はたち消える。一緒の部屋で寝るなんていつ以来だっけ? 和室に布団を敷く俊夫。母さんがいる前では体裁を整えないと。俺の仕事、何て話してあるの? 次回作準備中。布団に横になった佐和子が呟く。私ね、次回作は農業ファンタジーにしようと思うんだけど…。妻に背を向けて寝る俊夫は生返事。
佐和子は俊夫に車で教習所に送ってもらった。教官とともに教習車に乗り込んだ佐和子。教官が座席の位置を調整してシートベルトを締めるよう促す。安全確認をしてからブレーキ・ペダルを踏み、エンジンをかける。シフトレバーをドライヴに入れる。車は動き出さない。アクセルに踏み換えないと! 佐和子はアクセル・ペダルを踏むことがどうしてもできなかった。

 

ファンタジックな作風で人気のあるマンガ家・早川佐和子(黒木華)は、田舎で一人暮らしをする母・下條真由美(風吹ジュン)が怪我をしたのをきっかけに、今は佐和子のアシスタントをしている夫・俊夫(柄本佑)とともに実家に移り住む。田舎暮らしで足が無いのは不便であると佐和子は自動車免許を取得することにした。運転恐怖症と溢していた佐和子がある日を境にいそいそと教習に通うようになった。ネームを作成しているという妻の言葉に好奇心を抑えきれなくなった俊夫は、妻が教習で不在の隙に妻の部屋に忍び込みネームを盗み見る。すると、そこには、最新作の連載終了時からの自分たち夫婦の日常が描かれていた。

以下、全篇について触れる。

佐和子が、教習所に足繁く楽しげに通うようになって、ネーム作りにも勤しむようになった。佐和子不在の隙に俊夫がネームを盗み見ると、そこには俊夫と佐和子の担当編集者・桜田千佳(奈緒)との不倫が描かれていた。のみならず、佐和子が教習所で出会った眉目秀麗な教官・新谷歩(金子大地)に恋をするという内容だった。俊夫がネームの内容を事実と解釈し佐和子に不倫を糾すことは、自らの千佳との関係を認めることと同義である。俊夫は自らの過ちを認め、佐和子に謝ることができない。そのことが佐和子との距離を決定的に引き離すことになる。
佐和子は俊夫のマンガ家としての才能に惚れて結婚したのだろう。だが俊夫は4年間、自らの作品を描いていない。何事にも心が動かなくなってしまったのが描けなくなった理由だという。佐和子のアシスタントという地位に自足してしまったのだ。水槽に安住するカメは俊夫の象徴である。
佐和子は俊夫の運転する自動車に乗っていた。それが、免許を取得して自ら運転するようになる。マンガ家として俊夫の後進であった佐和子は、いつしかマンガ家として夫を超えた。私生活においては俊夫との関係を絶つことができなかった(どうしてもアクセル・ペダルを踏み込めない)。ところが、新谷との出会いをきっかけに、夫からの自立へと踏み込むことができるようになった。新谷の指導で妻の運転する教習車と、それを尾行した俊夫の車とが、交差点で左右別々の道へ進むシーンは、夫婦の行く末を暗示する。