可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 中村萌個展『our whereabouts―私たちの行方―』

展覧会 中村萌個展『our whereabouts―私たちの行方―』を鑑賞しての備忘録
ポーラ ミュージアム アネックスにて、2021年9月3日~10月10日。

楠の彫刻作品9点と楠の板に描いた絵画15点で構成される、中村萌の個展。

 プラトンアリストテレスにはじまる古代ギリシャ哲学の議論以来、「ミメーシス(模倣)」(動作や形態を模倣して自分の身体に写しとり再現すること)と呼ばれる能力は、人間文化における創造性の根源にあるものとして捉えられてきました。それはとりわけ古い呪術的な身振りのなかに示されてきたもので、世界のさまざまな土地における古来の民俗芸能や伝統的な踊り・演劇などのなかにいまでも色濃く残っています。(今福龍太『宮沢賢治 デクノボーの叡知』新潮社〔新潮選書〕/2019年/p.80)

入口の正面奥に設置されている《Bud of hope》(480mm×480mm×410mm)は、赤ん坊の頭部のような彫刻作品。瞑った目はほぼ横一線の彫りで表し、低い鼻、やや膨らんだ頬、閉じられた唇によって眠る赤子のような顔を構成する。不定形のカットで表面を覆った被り物らしきもので頭部が包まれている。頭頂部は鉢植えのように穴が空いていて、輝く土から双葉が芽吹いている。近くに飾られた平面作品《towards the light》は、楠を縦に裁断して左右に樹皮が残ったままの台形に近い形状の板に、《Bud of hope》のキャラクターを描いている。頭頂部の植物が蛇行しながら上に伸びて花を開きかけているのに対応し、右目を僅かに開けている。植物が力を蓄える様を眠りで、植物が花を開かせる瞬間を目覚めで、というように、挙措によって植物に擬態している。

 思想家ヴァルター・ベンヤミンは、人間の「類似」を認知する感性的能力を論じた重要な論考「ミメーシスの能力について」(1933)のなかで、模倣の能力の発生について論じています。そこでベンヤミンは、文字以前の人間の文化が、「内臓」を読み、「星」を読み、「舞踏」を読むことからはじまった、と書いています。「内臓」を読むとは、人類がみずからの内臓感覚を、生命記憶の源泉として意識することを指します。古い人類は洞窟のような暗闇の空間に入り込むことによってこの内臓感覚を外化し、そこでさまざまな呪術的儀礼を行なっていました。旧石器時代の人類が世界のさまざまな場所にのこした洞窟壁画とは、当時の動物の形態を洞窟の壁画に模写することを通じて野生の世界へと浸透し、自然の一部として自己を確認し、この外化された内臓(=洞窟)のなかにみずからの生命体としての記憶を刻印してゆく行為だったのです。まさにここでは、洞窟壁画という「ミメーシス(模倣)」の能力の発露が、人類最古の芸術的形象を生み出していったのでした。(今福龍太『宮沢賢治 デクノボーの叡知』新潮社〔新潮選書〕/2019年/p.80)

《inside us》(380mm×160mm×150mm)は、紺色の頭巾と衣装とを身につけた幼児あるいはドワーフのような妖精が、その腹に空いた穴に両手をかざして瞑想している立ち姿を表した彫刻作品。「人類」すなわち「私たち」が「みずからの内臓感覚を、生命記憶の源泉として意識する」様を表現している。腹部の穴が黄色く表されているのは、光を放っているからである。洞(うろ)の中にある泉を描いた平面作品《where the light is》は、穴の中の情景を表現した作品と考えられる。

 あるいは、マーシャル諸島などミクロネシアの群島民のあいだで古くから行なわれている、星座をもとにした独特の航海術をとりあげてもいいでしょう。彼らは海の民として、全身体的な感覚を動員して天体の「星」の配置を読みとり、それを船を操縦しながら航海する自らの方向感覚へと投影するという、繊細な模倣的身体技法を自らのものとしていました。西欧の占星術もまた、天体を読むことを通じてそれをみずからの身体や世界イメージへとアナロジー(類似)の原理によって結びつけてゆく感覚的思考法でした。こうした例からみるとき、「星を読む」という行為も、ミメージスの能力の基本にある身体技法であることがわかります。(今福龍太『宮沢賢治 デクノボーの叡知』新潮社〔新潮選書〕/2019年/p.80-81)

本展で最大の彫刻作品《our whereabouts》(1640mm×880mm×750mm)は、幼児の顔を持つ妖精のようなキャラクターの大中小3体を縦に重ねている。下段には、一番大きな妖精が珊瑚色に包まれてどっしりと構えている。薄く開かれた目は、中庸を志す表情を作る。中段は、中くらいのサイズの薄浅葱の妖精が、バランスをとるかのように両腕を左右に水平に伸ばしている。「珊瑚色」と体の向きが変えられていることもあって、動きが生まれている。最上段は、髪の毛が伸びて腹部に空いた穴に差し込まれている紺色の妖精。その頭頂部には、大きな星が輝いている。身体というミクロコスモスと宇宙というマクロコスモスが繋がれている(なお、本展の入口の壁には、この頭上に星を持つキャラクターが描かれている)。紺色の妖精が星(それは宇宙であり心でもある)を読み取り、薄浅葱の妖精がコントロールし、珊瑚色の妖精が歩を進める。「全身体的な感覚を動員して天体の『星』の配置を読みとり、それを船を操縦しながら航海する自らの方向感覚へと投影する」アナロジーとなっている作品だ。

 そしてベンヤミンが第三に挙げた「舞踏」こそ、ミメーシスの技法がもっとも深く探究された領域でした。原初の人間が野生の自然を受けとめながらそこに文化を創造してゆこうとするとき、かならず野生動物の所作を模倣するような舞踏が生み出されてきたことはとても興味深い事実です。たとえば、メキシコ北部ソノーラ州に住むヤキ族の「鹿の踊り」は、パスコーラと呼ばれる猟師の踊り手と、鹿の頭部を頭にかぶって鹿に擬態した踊り手による、狩猟を模した儀礼的なダンスです。そこで鹿の踊り手は、まさに野生動物としての鹿へと変身し、彼らにとって神でもある鹿の身振りを模倣しながら、精霊たちのすむ領域へと入り込んでゆきます。神や精霊と交流し、世界を蘇らせるための究極のミメーシス(模倣)の所作です。ヤキ族のインディオたちは、この模倣の身体的儀礼を通じて、自然のなかにみなぎる力を文化の側に組み込もうとしたのでした。(今福龍太『宮沢賢治 デクノボーの叡知』新潮社〔新潮選書〕/2019年/p.81)

彫刻作品《I'm nobody》(830mm×360mm×330mm)は、頭頂部に2つの長い耳をピンと立てた毛皮を被った妖精(?)の立像。毛皮を被ることで動物に擬態し、人ではない(=誰でもない)状態へ移行する。「世界を蘇らせるための究極のミメーシス(模倣)の所作」以外の何であろう。「自然のなかにみなぎる力を文化の側に組み込」むことで、「私たちの行方」を探るのだ。