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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 西村藍個展『私を許さない光』

展覧会『西村藍個展「私を許さない光」』を鑑賞しての備忘録
ギャルリー東京ユマニテ〔humanité bis〕にて、2021年10月18日~23日。

西村藍の絵画11点(大画面作品3点と小画面作品8点)を展観。

《二つの晩餐》(1750mm×2730mm)は、右側奥にある淡い灰青色のカーテンがかかった、周囲より1段高くなっている空間、右側手前の灰色のタイル(石?)を敷き詰めた空間、左側手前の壁の迫る空間の3つの空間から成る。右側奥の空間には、タイトル中の「晩餐」という言葉からテーブルにかけられたものと思われる白い布と、その下から5人の人物の裸足が覗いている。カーテンとテーブルクロスとの間には得体の知れない靄のようなものが広がり、テーブルの上に載っているものや食卓についている人については不明である。右側手前には、何かに腰を掛け、両膝にそれぞれ手を上向きにして置いている、黒い布を頭からすっぽりと被った人物と、床に屈み込んで右手で頭を抑え左手で胸を覆う、白い布を被った人物の姿がある。左側手前には、白い布を被った5人の人物が何もないテーブルを囲んでいる。テーブルクロスが床にまで垂れているためか、5人の人物の足は見えない。タイトルや、空間に置かれたテーブルから、レオナルド・ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》を踏まえた作品と捉えると、白い布を被る人物6人と足だけ見えている5人の11人が「イエス」の「弟子」と考えることができる。既に《最後の晩餐》において、12人の弟子のうち裏切った1人(イスカリオテのユダ)を除けば、弟子は11人となるからである。その場合、黒い布を被った人物が「イエス」となる。最も、(上半身が見えている)登場人物が斉しく布を被っているのは、個人が組織の一部に組み込まれることでその個性が剥奪されていることを示すのだろう。そして、精神的な負荷が過重にかかる閉鎖的な組織の場合、いじめのターゲットが排除されたとき、その者に代わる新たな生け贄が求められる。黒い布を被る人物と蹲る人物との2人だけが存在する右側手前の空間は、リーダーによる裏切り者の指弾を象徴する場面ではなかろうか。"un altro cena(もう1つの晩餐)"、すなわち「『二つ目』の晩餐」が描くのは、そのような組織ないし社会かもしれない。

《ラヴィニアとシンドローム》(1940mm×2430mm)の画面手前には、白い布を下半身に纏った女性が仰向けに倒れている。左手が顔を覆っているために表情は見えない。肌の色が蒼白となっていて、事切れているのかもしれない。その脇で斃れた女性を覗くように身を屈めているのは、白い布で全身を覆った人物。また、目までを白い布で覆い、上半身は裸で、白い布をスカートのように身につけている女性も佇んでいる。目の前に横たわる女性の存在に勘付いているのかどうかは定かではない。画面奥の一段高くなったところには、目を閉じて天を仰ぐような女性が立っている。白い布をスカートのように身につけ、頭から白い布をヴェールのように被っているが、上半身には何も身につけていない。肌が土気色のために今にも倒れることを予感させる。この女性の周囲に設置されている門のような構造物は壁や柵を伴わず、また柱は天井を支えていないため舞台装置のようである。画面左手に降ろされた褪せた赤いカーテンとともに、舞台空間の印象を作っている。左手のカーテンの脇からは宙に浮いたような2人の人物が身体を飛び出させ、目を布で覆った女性を指差しながら眺めているようだ。もっとも、暗色の肌の2人の目ははっきりとは描かれていない。カーテンの手前にある穴から上半身を覗かせている背中合わせの2人の人物も同様に目鼻の形が判然としない。登場人物のいずれもが、手や布で目を覆っているか、目を閉じているか、あるいは眼がはっきりと描かれていないことになる。「盲目」の人物が演じる舞台は、実見した情報に基づかずに生活する現代人の姿を描くようである。なお、タイトルに含まれる「ラヴィニア」という名から、ローマ神話に取材した可能性があるが、その関係を読み解くことができなかった。

《視線》(1300mm×1620mm)の画面中央奥には、スカートを身につけた上半身裸の女性が膝をついている。禿頭の女性の閉じられた目からは金色で表された光線が左右に3本ずつ延びている。画面の手前左右には、白い布をヴェールにして被り、下半身にスカートのように巻き付けた女性がそれぞれ座っていて、左右の手の指先と乳首とに中央の女性からの光線が当たっている。この作品を解釈するのに参考になりそうなのが、《conversation》(240mm×330mm)で、中央の禿頭の女性とヴェールを被った左右の女性たちの距離が縮まり、目から発せられた光線は左右の人物の指先だけを射している。会話というコミュニケーションは対面して発せられる言葉ではなく、右手すなわちスマートフォンを介して行なわれる視覚情報(=文字)のやりとりとなったことを示すのだろう。視線が直接的なものではなく、メディアを介した間接的なものが常態であることを示しているととりあえず解し得る。

《ギロチン》(270mm×160mm)では、月のような球体から発せられた4本の銀の光線の先に弧を描く帯が現われ、全身黒ずくめの衣装の女性がその帯によって首を斬られようとしている。何処にでも姿を現す月とその光とは、カメラとその視線とのメタファーであろう。印象的な展覧会タイトル「私を許さない光」とは、常時監視の視線を表すものであった。その視線が人を死に追いやる。《やがてサロメになる女》(180mm×140mm)における月とその光線も、同様に視線が狂気に向かわせるテーマを扱ったものと評し得る。