展覧会『加賀谷真秀個展「part of yours」』を鑑賞しての備忘録
BLANKにて、2021年10月19日~24日。
主に赤、黄、白の系統の絵具を荒々しく塗った画面に、スラブセリフ調の書体で"skin"と記した絵画シリーズ30点で構成される、加賀谷真秀の個展。
正方形または縦長の画面に、ラズベリーのような赤、レモンのような黄、クリームのような乳白色やマロンクリームのような象牙色などの絵具が荒々しい筆跡も生々しく塗り込められている。それぞれの絵具は分割迷彩のように斑に塗り分けられつつ、重ねられたり混ざり合ったりする部分もある。セリフ付きの肥痩のない線で"skin"という文字が最後に刻み込まれている。絵具が支持体を覆うことに着目すれば、描かれたもの=皮膚(skin)と言えよう。
(略)初期の多細胞生物はクラゲのような動物であっただろう。彼らの「皮膚」は環境に接していて、海水の温度、流れ、pHのような因子を感知するシステムは体表にあり、中枢を持たない神経網も全身に広がっている。人間の大脳にあたるような学習や記憶を担う受容体も彼らは持っている。つまり多くの感覚器、情報処理システムの基礎は、まず体表にあった。
しかし、その後の進化で、脊椎動物では、魚類が全身をウロコで覆った。さらに陸棲動物になると、前述のように皮膚表面をウロコ、羽毛、体毛で覆うようになり、感覚器は眼、耳、鼻、舌に集約されるようになった。同時に体表にあった感覚器は、その役目を失った。
しかし、それらの感覚器は存在し続けたようだ。体毛を無くして再び環境に直接触れることになった皮膚で、それらは作動し始めた。
特に注目すべきは皮膚の表層にある表皮だ。この表皮はケラチノサイトという細胞で構築されている。表皮の深い場所で生まれたケラチノサイトは、次第に形を変えながら皮膚の表面に向かい、やがて死ぬ。平たくなって死んだケラチノサイトが、角層を作る。前世紀までは表皮の役割は角層を作ることだけだと考えられていた。
しかし今世紀の初め、ぼくたちは、42℃以上の熱、トウガラシの辛味成分カプサイシン、酸によって作動されて痛みを感じるスイッチ(受容体)であるTRPV1がケラチノサイトに存在し機能していることを証明した。それがきっかけとなって、ぼくたちや海外の研究者たちが、様々な環境からの刺激を感知する機能を表皮、ケラチノサイトが持っていることを明らかにしてきた。
たとえば、電磁波である光、色、電気、時期、あるいは音(超音波も含む)、温度、大気圧、空気中の酸素濃度、突かれたり触れられたりする刺激などの物理学的な現象すべてを感知する応力を表皮、ケラチノサイトは持つ。さらに嗅覚、味覚に関係する様々な分子を識別する能力も持つことが明らかになった。
表皮は視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感すべてと、目や耳で感知できない紫外線、超音波、気圧の変化、磁場などまで感知できる驚くべき感覚器官なのだ。
さらにぼくたちはケラチノサイトに、大脳の情報処理の基礎となる情報伝達物質、それらによって作動される受容体も存在し、機能していることも発見した。これは、よく考えれば不思議ではない。受精卵が人間の形になる最初の段階で、外胚葉、中胚葉、内胚葉と呼ばれる3つの部分に分かれる。外胚葉は表皮になる。それがくぼんで溝を作り脊椎になり、その末端が膨れて脳になる。目や耳、鼻や舌のような感覚器も外胚葉からできる。
そう考えると、まず表皮に様々な感覚器、情報処理システムがあり、それから脳や神経系、感覚器が作られるとも言える。それは数億年前の進化の過程でもあっただろう。クラゲのような原始的な動物は身体の表面に感覚器を持ち、能はなく、体表に広がる網状の神経系を持っていた。それが魚の祖先になるとき、神経系は束になり、目や耳や鼻の起源になる感覚器になった。表皮に感覚器や脳にあるような受容体がある、というより、表皮にあった感覚器や情報処理装置が、眼や耳や鼻や脳になったと言うべきだろう。(傳田光洋『サバイバルする皮膚 思考する臓器の7億年史』河出書房新社〔河出新書〕/2021/p.58-60)
皮膚が「視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感すべてと、目や耳で感知できない紫外線、超音波、気圧の変化、磁場など」多様な刺激が入り乱れる場であるなら、支持体の上で鬩ぎ合う絵具は、多様な刺激及びそれを受容する皮膚を描いたものと考えられるのだ。
他方、描画の後に施されたと思われる"skin"という文字の刻印を、画面の表面を覆う皮膚の存在を召還する(invoke)ものと解することも可能だろう。すなわち不可視の膜としての「皮膚(skin)」の存在を"skin"という文字が象徴していると看做すのだ。その場合、絵具は真皮や皮下脂肪、筋肉など表皮の下に広がる世界についての一種の解剖学的表現となる。また、"skin"を彫る(≒掘る)ことが暗示するのは、「皮膚(skin)」という表面の差異を取り去り、身体の内部あるいは基層へと降ることだろう。白日に晒された皮下世界は、赤・黄・白の明るい混沌として画面に表される。そこでは自己と他者の区別は「皮膚(skin)」で行なうようには明瞭ではない。誰しもが自らの一部"part of yours"を見出し、引き受ける可能性を持つ。皮下世界の「共通項」を通じた連帯の可能性を呈示することこそ、作者の狙いではあるまいか。