展覧会『小山維子「衝突/抱擁」』を鑑賞しての備忘録
Sprout Curationにて、2021年10月2日~11月7日。※当初会期10/31までを延長。
コンスタンティン・ブランクーシ(Constantin Brâncuşi)の彫刻《接吻(Sărutul)》をモティーフとして制作された絵画13点で構成される、小山維子の個展。
《still no name》(333mm×242mm)は、周囲に地塗りも施さない生地の部分を残しつつ、灰色の線で囲った長方形の内部をクリーム色で塗り込めている。その長方形の内部には、罅あるいは割れ目と言える灰色の線が「>」状に長方形の上の辺から左の辺にかけて延び、その線から中央を横断する線が右側にある弧へと接続する。だが、これらの罅あるいは割れ目である線は途切れているか、あるいは未だ明瞭に姿を現さないことを示すべくペールオレンジの線で代替されている。生地は無を、長方形内の描画部分が包括的な領域である宇宙を表すのだろう。全ては1つであり、未だ差異を生じていない。すなわち、「未だ固有名は存在してない(still no name)」。
(略)固有名は、事物を個体として指示すると同時に、その事物が指示されているときに関与的でありうる、最大限に包括的な領域をも指示してしまう。ここで「包括的な領域」というのは、固有名による指示がなされているときに参照されうる(可能的あるいは現実的な)存在者の全体より成るクラスであり、その指示にとっての「宇宙」(universe)である。宇宙は、(現実世界を含む)可能世界の全体より成るクラスであると言ってもよい。関与的な存在者の全領域である宇宙は、本性上、もう1つの別の宇宙と並立することができない。つまり、宇宙の外部は積極的には存在することができない。存在が有意味に、積極的に想定されうる任意の対象は、定義上、宇宙の内的な要素であるしかないからだ。したがって、宇宙は絶対的に単一であるほかない。すなわち、宇宙は、それに対する「他」を積極的に想定することができない、根本的に孤立したものとして、指示されるしかない。
固有名が事物を単一のものとして――つまり他に並ぶものなきかけがえのないものとして――主題化するのは、このような包括的な領域が、絶対的に単一であるからだ。つまり、固有名の指示対象の単一性は、宇宙の単一性が、宇宙に内在する個々の対象(個体)の場所において再現したものであり、宇宙の単一性に由来しているのである。たとえば、「これはアリストテレスである」と名付けることは、これがアリストテレスとして存在するしかないような、「これ」として指示された存在者を含む領域を、1個の宇宙として構成してしまうのだ。すなわち、「アリストテレス」という言葉は、あらゆる可能世界において同じ対象を指示すること(固定指示子)によって、これがアリストテレスであるほかないような領域の全体として、宇宙をも間接的に指示しているわけだ。
(略)
だが、以上のように考えた場合には、次のような問題が避けがたい。名前による指示が、その度に潜在的な宇宙を、単一的な全体として確定する操作とは、いかなるものなのか? この疑問の真意は分かりにくいかもしれないので、多少の説明を加えておこう。
名前による指示がなされているとき、単一的な宇宙が同定されていなくてはならない。それは、名前が対応する事物の個体としての同一性を認定する操作の裏面である。ところで、対象の同一性の認定は、その対象と他なる対象との差異を認定することと、相即する。しかるに、宇宙の根本的な孤立性を認めるならば、宇宙の同一性が、そこからの差異として構成されるような、他なる宇宙を、積極的に想定することができない。宇宙の同一性を決定しうるような差異を主題化するためには、宇宙を他なる領域と並立させるような包括的な領域を必要とするように見える。もちろん、宇宙に対して、このようなより上位の包括的な領域を前提することは背理である。にもかかわらず、宇宙に対して外部と内部が決定できるような境界線が確定されている(つまり宇宙の同一性が確定されている)のだとするならば、それはいかにしてなのか、が深刻は疑問として現われるだろう。(大澤真幸『恋愛の不可能性について』筑摩書房〔ちくま学芸文庫〕/2005年/p.35-38)
《still no name》がブランクーシの《接吻》とどのように関係するのか。作家は《接吻》が「他者同士である2人の人間が1つの行為をしているというよりは、1つの石の塊としての単体性がまず強調されているように見えた」と言う。《still no name》においても包括的な領域である宇宙という単体性が強調されている。《still no name》で表現しているのは、そこに入れられた罅あるいは割れ目によって、《接吻》に見られる「1つの石から2人の人間」が生まれ出ようとする状況、すなわち「名前による指示がなされ」ようとしている状況であったのだ。
《Approach/Embrace》(273mm×320mm)は、花のプリントの生地に描画した2つの絵画を左右に接して並べることで1つの作品としている。左側の"Approach"は、白い花柄が浮かび上がる赤紫の画面に白混じりの藍の線で、ブランクーシの《接吻》のイメージを描き出している。頭部などの身体の輪郭、口(唇)、腕などが敢てあまり目立たないように配されている。石から未だ掘り出していない段階、これから彫刻を制作する段階を表しているという意味の"Approach"であろうか。あるいは、腕より下の辺りに男女間の隙間を表すような影がうっすら見えることから、抱擁のため身体を近づけている最中という意味で"Approach"なのかもしれない。"Embrace"では、直方体の石を削った部分を藍色で表すかのように、藍色を背景に《接吻》のイメージが白く浮き上がっている。花柄は石の持つ文様のメタファーであり、そこに絵具を塗ることは鑿で刻する作業を模すことになるのだろう。実際、《Embrace》(530mm×455mm)は、画面上で《接吻》の彫刻の再現を試みた単独作品である。それに対し本作は、"Approach"から"Embrace"への変化をこそ呈示すべく両者を1つの作品に統合しているのだ。
《Embrace》(484mm×333mm)と《Embrace》(320mm×273mm)とは、いずれも2枚の画面を縦に接して並べることで1枚の《接吻》のイメージを作っている。前者は彫像を主に赤紫で、隅の削られた部分をビリジアンで表し、後者は彫像を主にクリーム色で、削られた部分を藍で表している。「2人の人間の1つの行為」としての「接吻(あるいは抱擁)」であるなら、男女それぞれを表した画面を左右に密着させることで1枚の《接吻》のイメージを形成することもできたはずだ。なぜ上下に組み合わせることにしたのだろうか。上下の画面の接続部(上の画面の下端・下の画面の上端)に、それぞれ腕が配されていることに着目すれば、腕を恰も大和絵の「すやり霞」のように機能させ、頭部と胸部との断絶を感じさせることなく画面を一体のものにしようとしたということが考えられる。また、「接吻」の当事者(愛する者・愛される者)がお互いに対して腕を伸ばすという双方向性に着目すれば、愛というコミュニケーションにおいて、「私の単一性は、他者の存在の単一性として再現する」ことや「私が私である(単一である)ということが、そのまま他者へと移行すること」を表現していると解することができるかもしれない。
愛が真実であろうとするとき、単一的であることを要求する――愛されるべき対象(他者)が単一的に指定されることを要求する――理由は、ここにある。愛が単一的であることを要求されるのは、端的に言えば、わたしが単一的であるからだ。愛においては、私がまさに私であることの根拠となるような働き――宇宙の究極の中心としての働き――を、異和的な身体、つまり他者(も)が担う。それゆえ、私の単一性は、他者の存在の単一性として再現することになる。この構成は、奇妙な、言ってみれば矛盾したものである。「私」によって指示される身体が、あらかじめ世界の内部に実体として与えられているわけではない。「私」は、宇宙の究極の中心としてのその機能の方から規定されるのである。そうであるとすれば、そのような機能を他者(あなた)もが担っているかのように自体が構成されうるのは、私が(他者と)同時に同じ機能を維持している場合に限られる(さもなければ、単に「私」が別の身体を指示しているというに過ぎなくなる)。こうして、愛というコミュニケーションの様式においては、私の単一性が、したがって宇宙の単一性が破られるのだが、それは、私という身体や宇宙という事象の単一性を指定する機能が維持されているその限りにおいてなのである。逆に言えば、単一性を要求する「愛」という関係は、私が私である(単一である)ということが、そのまま他者へと移行することがありうる、ということを教えてくれているのである。
(略)
〔引用者補記:不安にこうして、愛を唯一的なものとして示し、また確信する所作である〕「愛する対象がサンドラではなかったならば」という想定は、このような愛の構造から誘発されるのだと考えられる。愛の単一性(唯一性)を主張するときに平然と用いられるこの反事実的な想定は、すでに述べたように、宇宙の同一性=単一性に対する否定を含意している。しかし、他者へと直面し、他者の固有性を認定せざるをえない愛という体験においては、私の単一性が、したがってまたこれと必然的に結託している宇宙の単一性が、――一方で保存されつつ――否定されてもいるのである。言い換えれば、このとき、宇宙に、外部へと繋がる開口部が穿たれるのである。愛する対象は、固有名によって指示された個体と同様に単一的なものでなくてはならない。この単一性は、私の単一性の直接の反照である。しかし、まさに私が愛している他者がもう1つの固有の指示の担い手であるがために、私の単一性の否定が構成され、愛する対象の個体としての単一性が一旦背景化することにもなるのだ。(大澤真幸『恋愛の不可能性について』筑摩書房〔ちくま学芸文庫〕/2005年/p.70-72)