可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『カオス・ウォーキング』

映画『カオス・ウォーキング』を鑑賞しての備忘録
2021年製作のアメリカ映画。109分。
監督は、ダグ・リーマン(Doug Liman)。
原作は、パトリック・ネス(Patrick Ness)の小説『カオスの叫び(1) 心のナイフ(The Knife of Never Letting Go)』。
脚本は、パトリック・ネス(Patrick Ness)とクリストファー・フォード(Christopher Ford)。
撮影は、ベン・セレシン(Ben Seresin)。
編集は、ドク・クロッツァー(Doc Crotzer)。
原題は、"Chaos Walking"。

 

「ノイズ」はダダ漏れになった男の頭ん中だ。蓋がなけりゃ、男なんて足が生えた混乱にすぎん。――逸名の惑星「新世界」入植者

西暦2257年。惑星「新世界」。森の中をトッド・ヒューイット(Tom Holland)が犬のマンチーを連れて歩いている。木の幹を這い上がる節足動物クローラーに向かい、トッドがナイフを投げつけて命中させる。トッドはクローラーをマンチーに餌として与える。道に出たところで騎乗した説教者アーロン(David Oyelowo)に出くわす。彼と関わりたくないトッドは自分の名前を思い浮かべてやり過ごそうとする。だが、彼を嘲る思いが「ノイズ」として表に現れてしまう。女のように「ノイズ」を隠す軟弱さが精神から腐らせていると非難したアーロンによってトッドは殴られる。トッドは集落の中心部に向かった。行き交うのは男たちだけで、しかも皆トッドよりも年長だ。デイヴィー(Nick Jonas)にからかわれたトッドは、「ノイズ」に蛇のイメージを表してデイヴィーにけしかける。取っ組み合いが始まろうとしたとき、デイヴィーの父で、集落の指導者プレンティス(Mads Mikkelsen)が現れる。プレンティスはトッドが「ノイズ」で「蛇」を操ったのを褒め、息子同然の期待をかけていることを示す。トッドが帰宅し、ベン(Demián Bichir)とキリアン(Kurt Sutter)とともに、いつものようにビートだけの倹しい夕食を取る。何してたんだ。明日は農場を手伝えよ。トッドはプレンティスから褒められたことで得意になっていて「ノイズ」を抑えられない。2人の養父はプレンティスには用心すべきだとトッドに注意する。
惑星「新世界」の第一次植民地との接触を図ろうと、宇宙船の母艦から探査機が送られた。大気圏に突入した際に探査機が炎上、機長が乗組員に脱出を指示する。ヴァイオラ(Daisy Ridley)は機体が激しく振動する中、緊急脱出装置に向かう。
トッドは畑で養父を手伝っていた。散水装置を修理していたところ、納屋の裏手にオレンジ色の服を着た人物を見かける。トッドが捕まえようとすると逃げられてしまう。森の中を追いかけているうち、周囲に火が燃え残る宇宙船の残骸に行き当たった。その傍らには数基の墓が設えてあった。トッドはプレンティスに報告しようと集落に向かう。トッドは黙っていたが、行き交う人々は興奮しているトッドの「ノイズ」で宇宙船が墜落したことを知る。プレンティスはトッドと手勢を引き連れて宇宙船の墜落現場に向かう。プレンティスは、トッドがオレンジ色の服の人物が「ノイズ」を発していなかったのを捉えていたため、「彼女」を捜索しろと指示を出す。1人「彼女」の行方を追っていたトッドは「彼女」に遭遇する。初めて女性に接するトッドはその興奮を「ノイズ」に曝け出し、「彼女」に逃げられてしまう。

 

西暦2257年。惑星「新世界」。植民地プレンティス・タウンは、かつて先住民「スパックル」との抗争で女性が皆殺しにされたため、男だけで構成されている。男たちの思考は「ノイズ」として表に現れてしまうが、指導者プレンティス(Mads Mikkelsen)は「ノイズ」の制御に成功している。ベン(Demián Bichir)とキリアン(Kurt Sutter)とに養育されたトッド・ヒューイット(Tom Holland)は、ある日墜落した宇宙船の生存者ヴァイオラ(Daisy Ridley)を見かけ、恋に落ちる。

惑星「新世界」においては、男性の思考が音声とイメージとによって頭部から現れてしまう。他者から視聴可能な男性の思考は「ノイズ」と呼ばれている。この設定が本作を何より特徴づけるものである。「ノイズ」の制御に成功したプレンティスが植民地の指導者の地位を得る一方、若いトッドは「ノイズ」が制御できずに人々から軽くあしらわれる。ところで、トッドの生活する植民地集落「プレンティス・タウン」――その名称は、イギリスによる最初期の永続的植民地「ジェームズタウン」の名を彷彿とさせる――には女性が存在せず、男性だけで構成されている。それは「姦淫するなかれ」の社会的実現と言えまいか。

『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。(『マタイによる福音書』第5章27節-第28節)

「姦淫するなかれ」は本来、極めて厳しい、実現不可能と言える戒律である。本作品では、本編に入る前に、逸名の惑星「新世界」入植者(unknown new world settler)の言葉「『ノイズ』はダダ漏れになった男の頭ん中だ。蓋がなけりゃ、男なんて足が生えた混乱にすぎん(The noise is a man's thoughts unfiltered, and without a filter, a man is just Chaos Walking.)」(私訳。字幕の表現とは異なる)が掲げられているが、それは「ノイズ」によって常に「情欲をいだいて女を見る」ことが視聴可能になってしまったことを示す。従って、「姦淫するなかれ」を実現しようとすれば、女性不在の状況を設定する他ないのである。

 フランス革命に対して好意的な人でも、恐怖政治を肯定することは躊躇する。そこには次のような問いが伏在している。恐怖政治抜きの革命は可能なのか。1789年はあるが、1793年はないような革命は、ありうるのか。
 こうした疑問を背景にもつ、フランス革命カトリックの関係について、紋切り型の説明がある。フランス革命が政治革命になったのは、フランスが歴史の適切なタイミングで宗教改革を経ていなかったからだ、というのである。十分に徹底した宗教改革を経験していれば、革命がもたらした社会的現実を受け入れる精神的な素地が準備にされていたはずだ、と。革命が強迫的な暴力へと転じたのは、宗教改革が用意してくれたにちがいない精神的な実体が、フランスにはなかったからだ、というわけである。(略)アメリカを見れば、あんなひどり暴力的な革命を経なくても、しかるべきもの(デモクラシー)を得ることができたのではないか、と。
 だが、この標準的な見解の妥当性を検証する素材として、アメリカは適切ではない。ヨーロッパの伝統的な共同体との結びつきを保証していた根を絶つことが、すでに、一種の「暴力」になってしまっているからだ。アメリカに渡ったピューリタンたちは、暴力を経ずに革命的な成果だけを得たのではなく、彼らの新大陸への移住自体がすでに暴力だったのである。(大澤真幸『〈世界史〉の哲学 近代篇Ⅰ 〈主体〉の誕生』講談社/2021年/p.66-67)

冒頭、「ノイズ」によって自らの思考を悟られまいとするトッドを説教者アーロンが非難し殴打する。彼が象徴するのは「姦淫するなかれ」を徹底させようとするプロテスタンティズムであるとともに、その哲学的産物としてのカント哲学であった。

 カントやヘーゲルの哲学は、キリスト教の哲学化であると解釈することができる。もっと端的に言えば、それは、プロテスタンティズムの哲学的産物である。このことは、しかし、彼らの哲学が神学のようにキリスト教に従属している、ということでへない。キリスト教から哲学的な成分を抽出し、信仰に依存することなく、理性によってキリスト教えの中核的な教義に等しいことを基礎づけること、これがドイツ観念論である。だから、彼らの説は、信仰をもたなくても、また聖書の記述を参照しなくても納得することができる。しかし、結論的には、厳格なキリスト教の教えと同じことが、つまり宗教改革が説こうとしていたことが、彼らの哲学を通じて得られるようになっている。(大澤真幸『〈世界史〉の哲学 近代篇Ⅰ 〈主体〉の誕生』講談社/2021年/p.68-69)

プレンティス・タウンにおいては、ただ1人指導者プレンティスのみが「カオス」をコントロールし、植民者たちの思想は「カオス」によって全て白日の下に晒されている。個人の思想が全て為政者によって把握されてしまう状況は、恐怖政治のメタファーとなっていよう。そして、プレンティス・タウンに女性が一切存在しないのは、実は恐怖政治のもたらした暴力の帰結であった(為政者は先住民に責任転嫁し、トッドのような少年は「教育」がゆえにその虚偽を疑わなかった)。そのような過剰な暴力を可能にしてしまうものは何か。それは、カントの定言命法の持つ厳格さである。

 フランス革命のどこに、カントの倫理学の真実が現れているのか。それこそ、あの恐怖政治である。恐怖政治は、官途の定言命法の実践的帰結ではないか。定言命法は、絶対無条件の命令、どんな私的な欲望や利害にも妥協しない無条件の命令である。カントの考えでは、最高善は定言命法のかたちでのみ表現される。だが、その律儀な実現は、あの恐怖政治のようなものになるのではあるまいか。もちろん、厳密には、恐怖政治の中で発揮された暴力が、完全に私的な欲望の類から自由だとは言えまい。それは、嫉妬や復讐心や利害や恐怖にも強く規定されていただろう。しかし、その暴力には、こうした感情や欲望には回収できない過剰さがある。それは、革命の大義がもたらす過剰さであり、カントの定言命法が目指している厳格性に通じている。(大澤真幸『〈世界史〉の哲学 近代篇Ⅰ 〈主体〉の誕生』講談社/2021年/p.70)