可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 保坂航子個展『みどりこ』

展覧会『保坂航子展「みどりこ」』を鑑賞しての備忘録
ギャルリー東京ユマニテにて、2021年11月22日~12月4日。

ブロンズ彫刻7点、石彫2点で構成される、保坂航子の個展。

《沈思より浮かびあがるイメージ(クロワッサン) #2》(60mm×250mm×210mm)は、三日月形のクロワッサンのブロンズ彫刻。横たえられているが、(立てることができるかどうかは不明だが)仮に立てるように設置すると、5つの部位を持つアーチになる。それを潜り抜けて、作品の世界になるよう、展示の冒頭に置かれているのかもしれない。「沈思」は"méditation"であろうが、「熟慮」と広く捉えれば、"réflexion"の「反射」の意を介して、作品の金色の表面や「三日月(croissant)」(≒月)が持つ鏡のイメージに接続する。

《沈思より浮かびあがるイメージ(サボテンA) #2》(220mm×110mm×75mm)は、オプンティア(ウチワサボテン)らしき茎節が縦に2つ連なったブロンズ彫刻。親指を立てた形状のうち、膨らみのある下の「茎節」が胴を、細長い扁平な上の「茎節」が頭を表す、俯いて考え込む人物像である。のっぺりした金色の表面は、隣に並べられた《沈思より浮かびあがるイメージ(サボテンB) #2》(125mm×110mm×50mm)の栓の付いた瓶のような形状の頭部と胴体――すなわち人形――を映している(なお、サボテンBの表面はサボテンAと異なり表面が曇っている)。

《みどりこ(嬰児)》(270mm×520mm×230mm)は、緑の濃淡と白とが混ざる石を、卵形のアボカドを半分に切断したような形の彫刻作品。「アボカド」の切断面の一部がその「種」のように盛り上がっているのは、おくるみから覗く赤子の顔だろうか。横たえられた石に赤ん坊の眠る姿を見ることが可能で、また、石の緑色は「みどりこ」という言葉を引き寄せるが、コンスタンティンブランクーシ(Constantin Brâncuşi)の作品以上に、嬰児を表現する造形的要素を絞り込んでいる印象を受ける。

《哀しみの卵はアボカドに似て #3》(80mm×165mm×120mm)と《哀しみの卵はアボカドに似て #4》(80mm×165mm×120mm)は、両者ともに、縦に半分に割ったアボカドの実から球形の種が露出している様を象ったブロンズ作品。卵形のアボカドの実は果皮も果肉もともにモスグリーンで表され、その中から覗く丸い種がそれぞれ金色(#3)と赤銅色(#4)に輝く様は、きなこおはぎが泡立つ抹茶に浸かるようで愛嬌がある。作家は「石で起こしたかたちをブロンズに置き換えるという制作手法をとっている」そうで、表面の微細な穴や罅はもととなった石彫の表情なのだろう。ところでタイトルに掲げられた「哀しみの卵」が哀しみを生み出す原因であるとするなら、「アボカドに似」たその中には、金の球体(蛇足ながら、アボカドの語源には「睾丸」があるらしい)が象徴する、酌み取るべき価値ある何かが眠っているのかもしれないと思わせられる。アボカドを割ると姿を見せる種のように、つい簡単に真理をつかみ取れそうな気がしてしまう。

 運慶は見物人の評判には委細頓着なく鑿と槌を動かしている。いっこう振り向きもしない。高い所に乗って、仁王の顔の辺をしきりに彫り抜いて行く。
 運慶は頭に小さい烏帽子のようなものを乗せて、素袍だか何だかわからない大きな袖を背中で括っている。その様子がいかにも古くさい。わいわい云ってる見物人とはまるで釣り合が取れないようである。自分はどうして今時分まで運慶が生きているのかなと思った。どうも不思議な事があるものだと考えながら、やはり立って見ていた。
 然し運慶の方では不思議とも奇体とも頓と感じ得ない様子で一生懸命に彫っている。仰向いてこの態度を眺めていた一人の若い男が、自分の方を振り向いて、
「さすがは運慶だな。眼中に我々なしだ。天下の英雄はただ仁王と我れとあるのみと云う態度だ。天晴れだ」と云って賞め出した。
 自分はこの言葉を面白いと思った。それでちょっと若い男の方を見ると、若い男は、すかさず、
「あの鑿と槌の使い方を見たまえ。大自在の妙境に達している」と云った。
 運慶は今太い眉を一寸の高さに横へ彫り抜いて、鑿の歯を竪に返すや否や斜すに、上から槌を打ち下した。堅い木を一と刻みに削って、厚い木屑が槌の声に応じて飛んだと思ったら、小鼻のおっ開いた怒り鼻の側面がたちまち浮き上がって来た。その刀の入れ方が如何にも無遠慮であった。そうして少しも疑念を挾んでおらんように見えた。
「よくああ無造作に鑿を使って、思うような眉や鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから独言のように言った。するとさっきの若い男が、
「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云った。
 自分はこの時始めて彫刻とはそんなものかと思い出した。はたしてそうなら誰にでもできる事だと思い出した。それで急に自分も仁王が彫ってみたくなったから見物をやめてさっそく家へ帰った。
 道具箱から鑿と金槌を持ち出して、裏へ出て見ると、先達ての暴風で倒れた樫を、薪にするつもりで、木挽に挽かせた手頃な奴が、たくさん積んであった。
 自分は一番大きいのを選んで、勢いよく彫り始めて見たが、不幸にして、仁王は見当らなかった。その次のにも運悪く掘り当てる事ができなかった。三番目のにも仁王はいなかった。自分は積んである薪を片っ端から彫って見たが、どれもこれも仁王を蔵しているのはなかった。ついに明治の木にはとうてい仁王は埋っていないものだと悟った。それで運慶が今日まで生きている理由も略解った。(夏目漱石夢十夜夏目漱石文鳥夢十夜』新潮社〔新潮文庫〕/1976年/p.41-42)

《カフェのテーブル #2》(580mm×1150mm×30mm)は、湖を取り囲む山を上から捉えたイメージとでも言うべきか、何かを囲い込むように伸びる形状のブロンズ作品。「カフェのテーブル」というタイトルとの結び付きは判然としない(小洒落たカフェに古木の洞を活かした歪な形のテーブルでも置かれていたのであろうか)。展示室の奥の壁面の中央に掛けられていて、金色の表面には、歪みながらも会場の全ての展示作品が映り込んでいる。全てを囲い込み、あるいは飲み込む、そのような力強さが宿された作品である。