可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 小林明日香個展

展覧会『東アジア絵画のなかへ―収斂と拡散 vol.4 fieldwork 小林明日香展』を鑑賞しての備忘録
柴田悦子画廊にて、2021年12月1日~6日。

描いたものにコピーや写真を組み合わせたり、描くだけでなく画面を彫ったり縫い合わせたりした絵画29点で構成される、小林明日香の個展。

《3 chairs Ⅰ》(530mm×455mm)は、籐椅子を斜め上から描いた作品。座面に置かれたクッション、障子など、籐に茶色を配する以外は主に淡い墨で描かれている。椅子の背の籐を編んだ部分や座面のクッションの植物模様などは画面を彫り、露出した板自体の色が覗く。籐椅子の背には立て掛けるように写真が貼られている。写真には、本作が描いている籐椅子と黒革の椅子とを隣同士に組み合わせた別の作品《2 chairs》を、やはり本作の描く籐椅子に置いた様子が映っている。籐椅子に着目すると、「籐椅子」の絵(《2 chairs》)(=籐椅子′)を「籐椅子」に置いて撮影した写真(=籐椅子″)を「籐椅子」を描いた作品に貼り付けた作品(《3 chairs Ⅰ》)(=籐椅子‴)と、「籐椅子」が三重に現れるので、"3 chairs"と題されているのだろう(なお、黒皮の椅子について同様に三重に表現した《3 chairs Ⅱ》も隣に展示されている)。
籐椅子′、籐椅子″、籐椅子‴が描かれるが、それらはいずれも籐椅子そのものではないことから、日常的に接する情報がメディアを介在させた二次的・三次的なものであることを示すものと解される。あるいは、椅子のイメージは座るべき者の不在を強く想起させ、描く対象となった籐椅子そのものが眼前には存在しないことを気付かせる。そのため、モデルとなった籐椅子自体を「イデア」、そのイメージをエイドロン(模像)として、後者しか捉えることができないという、プラトンイデア論を読み取ることも可能かもしれない。また、マトリョーシカのような入れ籠状態であり、異なる時間における籐椅子が1つの画面に表されている(とりわけ、貼り付けられた写真は彩色や彫り込みによって絵画との同一化が図られている)ため、「並行世界(parallel universe)」の接続のようなSF的表現とも言えよう。並行世界へのワームホールとなるのは、『鏡の国のアリス』のアリスが鏡を通り抜けたように、鏡かもしれない。
ところで、《3 chairs Ⅰ》における入れ籠の表現は、容易に「合わせ鏡」への連想を誘う。すると、《向日葵畑》(670mm×1330mm)など向日葵をモティーフとする作品群の向日葵がカーブミラーに見えてくる。実際、向日葵は鏡であり得る。向日葵を見るとき人が向日葵にも見られているのだとすれば、両者の間には「見る-見られる」の循環的な関係が生まれる。向日葵を眺めることは自らの姿を眺めるために鏡を覗き込むのと変わらない。

 描こうとする対象に見られなければ、画家はその対象が息づいている世界に入れない。よって、私が見られるためには、私は精神ではなく、身体でなければならない。私が見られるということは、私が可視的であることである。私たちは対象から反射してきた光を浴びることで見る。逆に、他者の眼は、私から反射する光線を使って見る。他者が私を見るとは、他者が私の身体から反射した光を浴びることである。他者はさまざまな場所から自分のところに集まってくる光、すなわち、包囲光を浴びている。私が羞悪のどの場所も見ることができるということは、それらすべての場所から光を浴びているということである、その可能な視線である包囲光の一部に眼を向けて、選択的にその光を眼に受ける。他者は私からやってきた光線に眼を向けることによって私を見る。「樹木が私を見ている、私は樹木から見られている」と感じること〔引用者註:モーリス・メルロ=ポンティの『眼と精神』で紹介されている画家アンドレ・マルシャンの発言を踏まえている〕とは、樹木が私の身体から反射した光を浴びていることを知覚することである。
 だが、私はどのようにして、私から反射した光が樹木を照らしていると知ることができるのだろうか。それは、ひとつには、私が樹木を見ることができるということである。私が見ているときには、樹木と私とは相互に光を反射しているはずである。その反射しあう光を利用して、私と相手は相互に見られる。したがって、森の中で樹木が私を見ているという経験は、森の中での私の可視性と森の樹木の可視性を経験するということである。私は誰にでも見える。樹木がこちらに関心を持つならば、私は樹木にも見えるはずなのだ。
 (略)
 私は、森の中で、森の樹木や生き物の関心の対象となることで見られる存在となる。樹木たちと「見る-見られる」の循環的な関係を作ることによって、画家は森の一部となった。世界に見られることによって、私は世界の中に入ることができる。それがマルシャンの言う「世界に貫かれる」ということであり、「世界にすっぽり埋没する」ということである。
 もし樹木が視覚をもつのであれば、樹木は、鏡でも見るように画家を見て、自分が見ることのできない自己を見ようとしているはずだ。樹木を描いた絵画とは、樹木が画家という外部の回路を通して、おのれ自身をみたときのヴィジョンだと解釈できないだろうか。それは、観察者を通して自己を自己たらしめようとすることである。画家は、樹木の自己認識のための媒体であり、道具である。画家が「浮かび上がろうとしてして描く」のは、絵画を描くことによって樹木の自己認識を完成させてやり、樹木の視線から解放されるためである。この意味で芸術は、自然の自己表現の延長なのだとさえ言えるのだろう。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014年/p.56-58)

《向日葵畑》の画面の左側には紙が継がれて、そこに恰も顔を伸ばすかのようにゆらりと倒れる臙脂の管状花群の向日葵が描かれている。向日葵が「鏡でも見るように画家を見て、自分が見ることのできない自己を見ようとしている」のだ。
表題作《fieldwork》(1700mm×2100mm)は、色取り取りの布を継ぎ合わせたものが支持体となっている。中心となるのは、赤い布に植物を描いた部分。布の上からスケッチブックや写真を複写した紙(?)が貼られ、植物が墨と赤とで表されている。植物の支えとなる2本のスキー・ストックには、それぞれグリップに緑と黄に彩色されている。スケッチブックの穴(を表す黒い円)の部分にはリングを模して、糸が縫い込まれている。赤い布の上部には、寄棟屋根のような小平の三角形の白い部分と、平の四角形の縞の部分とが縫い合わされている。また、右側にはビニルハウスをえがいた茶色い布や、柑橘の実の写真を貼ってある布などが継ぎ足されている。デイヴィッド・ホックニー(David Hockney)が撮影位置を僅かに動かした複数の写真を接続させて作品とするフォト・コラージュの技法を連想させる。
《fieldwork》に、植物の支柱として使われているスキー・ストックが描かれているのが象徴的であるが、布、紙、コピー(複写)、写真、糸(縫い)など(他の作品では板や版画も用いられている)、作者は絵画を表すのにあらゆるものを用いている。例えば、墨、岩絵具、紙、絹などの特定の道具に拘泥しないのだ。また、絵画のモティーフとなるのも、室内にある家具であったり、近隣の畑や公園である。そして、《fieldwork》の画面(布)が継ぎ足されていくことが示唆するように、画面内にいかにモティーフを収めるかという当初の計画に縛られることなく、必要に応じて必要なだけ作品を拡張している。作家の制作態度には、「ありあわせの道具材料を用いて、その場その場で本来予定されていなかったものを偶然生み出す」(出口顯「今日のブリコラージュ」奥野克巳・石倉敏明編『Lexicon 現代人類学』以文社/2018年/p.30)「ブリコラージュ」が認められる。

 ブリコラージュする人がブリコルール(bricoleur)である。彼は、多種多様な仕事をすることができる。しかしながら、エンジニアとはちがって、仕事の1つ1つについてその計画に即して考案され購入された材料や器具がなければ手が下せぬということはない。彼はそのときそのときの限られた道具と材料の集合で何とかしなくてはならないし、しかも、もちあわせの道具や材料は雑多でまとまりがない。なぜなら「もちあわせ」あるは「ありあわせ」とは、いかなる計画にも無関係に偶然に結果手元に届いたものだからである。したがって器用人(ブリコルール)の使うものの集合は、ある1つの計画によって定義されるものではない。
 ブリコルールの用いる資材集合は、単に資材性あるいは道具として役に立つという潜在的有用性によってのみ規定される。ブリコルールは、資材性つまり「まだ何かの訳に立つ」という潜在的有用性を「もの」の中に見出すのだが、それは、「もの」(素材)が、明確に限定された用途のためにとっておかれたのではなく、同じようにとっておかれた他の「もの」や周囲の環境との具体的な関係の中で、あらたな役割が発見されるということである。そしてあらたな役割が見出されるためには、細かな点に至るまで「もの」の特徴に気づいていることが大切である。それを可能にするのが、ブリコルールのあくなき知的探究心である。(出口顯「今日のブリコラージュ」奥野克巳・石倉敏明編『Lexicon 現代人類学』以文社/2018年/p.30-31)

《3 chairs Ⅰ》が入れ籠ないし合わせ鏡の構造により画面奥に向かって反復するのに対し、《fieldwork》では布を継ぎ足すことで水平方向に拡大を続けていく。前者が「収斂」の作品、後者が「拡散」の作品であるが、いずれも増殖のイメージである。新型コロナウィルス感染症が猖獗を極める世界を、増殖というテーマに落とし込み、作品に封じ込めているかのようである。

 しかし人間の精神における知的探究心によるもののみがブリコラージュではない。そもそも生命の進化とはブリコラージュだと説くのが、フランスの分子生物学者フランソワ・ジャコブである。例えば、陸上の脊椎動物の肺形成は、よどんだ水たまりに棲息する淡水魚からはじまった。魚は空気を飲み込んだとき食道の壁を通じて酸素を吸収する。その状況下で食道の表面積を拡大することが淘汰に際して優位をもたらすことになった。かくして食道に憩室が現れ肺となるまでに拡大した。「食道の一部から肺を作り出すのは、祖母より譲り受けたカーテンの切れ端からスカートを作るのと非常によく似ている」とジャコブは言う。進化は、何百万年もの間、少しずつこっちを付け加え、あっちを切り取り、そっちを伸ばしちうふうに、あらゆる変形と創造の機会を捉えて、その産物を改良してきた。(出口顯「今日のブリコラージュ」奥野克巳・石倉敏明編『Lexicon 現代人類学』以文社/2018年/p.30-31)