可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『ラストナイト・イン・ソーホー』

映画『ラストナイト・イン・ソーホー』を鑑賞しての備忘録
2021年製作のイギリス映画。115分。
監督は、エドガー・ライト(Edgar Wright)。
脚本は、エドガー・ライト(Edgar Wright)とクリスティ・ウィルソン=ケアンズ(Krysty Wilson-Cairns)。
撮影は、チョン・ジョンフン(Chung-hoon Chung)。
編集は、ポール・マクリス(Paul Machliss)。
原題は、"Last Night in Soho"。

 

エロイーズ・ターナー(Thomasin McKenzie)が、自宅で、自作のドレスに身を包み踊っている。廊下から「カーナビィ」と記されたドアを開けて自室に入ると、マネキンにドレスを宛がう。何をお召しになって? エロイーズ・ターナーですわ。誰のデザイン? もちろん、エリー・ターナーよ。一人芝居に興じていると、振り回したドレスが写真立てを倒し、レコード・プレーヤーに当たって、"A World Without Love"の同じフレーズが繰り返し流れる。姿見に母親(Aimee Cassettari)の姿が映った。いい知らせよね? 階下で祖母のペギー(Rita Tushingham)が手紙が届いたとエリーに声をかける。エリーが駆け下りてロンドン芸術大学の封書を慌てて開封すると、カレッジ・オブ・ファッション合格の通知だった。ロンドンに行くわ! そうでしょうとも。
2人が暮らすのはイングランド南西部コーンウォールの町レッドルース。エリーは荷造りをする。スーツケースに詰め込むのは60年代のレコードばかり。持って行っていいよね? 私の影響だから今更どうしようもないわ。だけど、着るものはどうするの? ペギーは、かつてエリーの母親と行ったロンドンの思い出を写真を手に語る。リバティとかセルフリッジズ、それにカーナビィ・ストリート。店員たちは私たちには手が出ないって見くびってたわ。でも眺めるだけで勉強になったのよ。ペギーは写真を渡そうとする。持って行かないわ。落ち着いてからね。クライテリアンで食事しよう、この写真みたいに。そこで食べたんじゃないわ、写真だけ撮って、ウィンピーでハンバーガーを食べたの。私がデザイナーとして成功したら行こう。ウィンピーはもう無いんじゃない? クライテリアンよ。それもあなたの母親の夢だった。でもロンドンはあなたの想像するようなところじゃないの。気をつけなさい、悪い人はたくさんいるわ。度胸ならあるし、区別は付けられる。ロンドンには溢れてるの、あなたの母親には溢れすぎていた。それに彼女にはあなたみたいな能力はなかった。私の能力って? あなたみたいに感じたり見たりできるってこと。あなたも圧倒されてしまうんじゃないか心配なの。私は自分のためだけにロンドンに行きたいんじゃないわ、ママのために行きたいの。ロンドンはそんなにひどくないだろうし、ママのこともそう頻繁には思い出さないわ。
出発の朝を迎え、タクシーに乗り込もうとするエリーに、ペギーは母親の写真を手渡す。電話してね。もちろん。エリーはタクシーからペギーに手を振る。
列車で一路ロンドンへ。エリーはタクシーに乗り込み、シャーロット・ストリートと告げる。ロンドンは初めて? 運転手(Colin Mace)が尋ねる。母と1度。幼いときですけど。随分変わりましたね。確かにめまぐるしいけどね、表を剥いだら古いロンドンのまんまだよ。良かった。ところで何しにロンドンへ? カレッジ・オブ・ファッションのためです。モデルさん? いえ、衣装をデザインします。デザイナーになりたいんです。モデルでも通用するよ、綺麗な脚してるし。エリーは慌てて裾を直して脚を隠す。シャーロット・ストリートへは何で? 学生寮があって。女子寮なの? お嬢ちゃんみたいなスーパーモデルがいるなら通っちゃうな。俺はお嬢ちゃんのストーカー1号ってとこだな。降ろして下さい。もう着くよ。手持ちが足りなくて。何とかするから、だいたいこの辺りで夜に女の子1人じゃ危ないよ。買い物したいんです。エリーは車を止めさせると食料雑貨店に入る。コーラだけ買うとタクシーが去るのを確認してから歩いて寮を目指す。寮の入口の脇に佇んでいた男子学生(Michael Ajao)が荷物を運ぶのを手伝おうと声をかけてくれたが、タクシーの件で動揺しているエリーは断って重いスーツケースを1人で持ち上げた。
エリーがスーツケースを引いて廊下を進み、自室へ見付ける。表札には「エロイーズ・ターナー」とともに、姓が消された「ジョカスタ」という名前が記載されていた。女子学生(Synnøve Karlsen)が現れてエリーに声をかける。エロイーズっぽいね。私がジョカスタ。表示が間違ってたの? 姓を名乗らないことにしたの。名前だけって特別な感じしない? 作品が有名なら名前だけで通用するでしょ、カイリーとか。ミノーグ? ジェンナーよ。ジョカスタならどう? 知らないわ。だからいいの。2人は部屋に入る。私が窓際でいいよね。ええ。出身は? レッドルース、コーンウォールにあるの。悲惨ね。あなたは? マンチェスターだけどギャップイヤーでサヴィル・ロウのアトリエにいたの。凄いのね、私なんかレッドルースでずっと1人で衣装を作ってたのに。自作っぽいの着てるなって思ってた。私の服はブシュラ・ジャラール、彼女がランヴァンに移る前のね。ジョカスタが煙草に火を付ける。煙草は? 吸わないわ。ここ喫煙できるの? 感知器の電源外したから。駄目なら外に行ってもいいけど? 父親は何してる人? 父のことは知らないの。母親は? 亡くなったわ。やっと共通点が見つかった。母親が死んだとき、15だった。私は7つのとき。そんなに小っちゃいときか。まあ、幼い方が気軽かな。
エリーが冷蔵庫にコーラをしまい向かうと、ジョカスタがララ(Jessie Mei Li)、キャミ(Kassius Nelson)、アシュリー(Rebecca Harrod)と雑談していた。エリーは自作の服を着てるの。大した度胸よね。2人は以前からの知り合い? 15分かな。2人とも母親が死んでるの。私のは白血病でね。くそ腹立つけど、原動力にはなってるかな。エリーの母親は? 良くなかったの…精神的に…自殺したの。

 

コーンウォールの町レッドルースのエロイーズ・ターナー(Thomasin McKenzie)は、祖母のペギー(Rita Tushingham)と2人暮らし。祖母の影響で60年代の音楽とファッションに夢中だ。母親(Aimee Cassettari)はエロイーズが7歳のとき自殺したが、エロイーズは母親の姿をよく目にしていた。母親の夢でもあったファッション・デザイナーになるべく、エロイーズはロンドン・カレッジ・オブ・ファッションに入学した。女子寮で相部屋になったジョカスタ(Synnøve Karlsen)の自己中心的な振る舞いに耐えられなくなったエロイーズは、掲示板で見付けた部屋を内見しにグージ・ストリートのミセス・コリンズ(Diana Rigg)の建物を訪ねる。古きロンドンの面影を留めた屋根裏部屋を一目見て気に入ったエロイーズはすぐに転居を決める。エロイーズが眠りにつくと、1960年代のロンドンに迷い込む夢を見る。カフェ・ド・パリに入ると、鏡の中に映るのは自分ではなくサンディ(Anya Taylor-Joy)の姿だった。

エロイーズ・ターナー(Thomasin McKenzie)のシルエットが戸口に映り、"A World Without Love"に合わせてダンスするシーンから魅了される。エロイーズ(エリー)がカフェ・ド・パリに入り、鏡の中に映るサンディ(Anya Taylor-Joy)と同化して、「彼女」がジャック(Matt Smith)とともに踊る流れも素晴らしい。そして、彼女たちの姿に只管眼福を得ていると、ちょうどエロイーズとサンディとの入れ替わり(=同化)のように、自らが「彼女」を舐めるように見て食い物にする男たちとの入れ替わり(=同化)に気が付く。鑑賞者(の男性)は、監督が仕掛けた罠には物の見事にかかっているのだ。恐るべし。
ロンドンのタクシー運転手の発言内容は、タクシーという「密室」であることも相俟って、田舎から大都会に出てきたばかりの少女に気持ちの悪くなる体験をさせることになる。また、彼の「表を剥いだら古いロンドンのまんまだよ。(It's still the same old London underneath.)」という発言は、後に作品で語られる女性の性的搾取が依然として存在することを仄めかすものでもある。さらに、"underneath"のイメージが、下宿先の屋根裏部屋のベッドのシーツに重ねられ、エリーがそこに潜り込むと、1960年代のロンドンに至る。シーツの下、カフェ・ド・パリの地下は、『不思議の国のアリス』のウサギ穴を通るイメージに重ねられている。また、冒頭では、突然鏡に母親の姿に現れる。エリーが母親とともに鏡に映ることは、エリーに鏡の中の世界(異界)と往き来する能力(gift)があることが示される。