可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『悪なき殺人』

映画『悪なき殺人』を鑑賞しての備忘録
2019年製作のフランス・ドイツ合作映画。
116分。
監督は、ドミニク・モル(Dominik Moll)。
原作は、コラン・ニエル(Colin Niel)の小説"Seules les bêtes"。
脚本は、ドミニク・モル(Dominik Moll)とジル・マルシャン(Gilles Marchand)。
撮影は、パトリック・ギリンゲリ(Patrick Ghiringhelli)。
美術は、エマニュエル・デュプレ(Emmanuelle Duplay)。
衣装は、ヴィルジニー・モンテル(Virginie Montel)とイザベル・パヌティエ(Isabelle Pannetier)。
音楽は、ベネディクト・シーファー(Benedikt Schiefer)。
編集は、ローラン・ルーアン(Laurent Roüan)。
原題は、"Seules les bêtes"。

 

ヤギの鳴く声がする。若い男(Cheick Diakité)がヤギをリュックサックのように背負って、アビジャンコートジボワール)の雑踏を自転車で走り抜ける。周囲より高いアパートの前で自転車を降りると、彼は建物に入り、1室の呼び鈴を鳴らす。ロレックスです。サヌー師(Christian Ezan)を。
フランス。コース地方。アリス・ファランジュ(Laure Calamy)が雪化粧した山道を赤い車で走り抜ける。一軒の民家に近づくと、クラクションを何度か鳴らす。車を降りて建物に向かうと、山側にある木立の方からジョゼフ・ボンヌフィーユ(Damien Bonnard)が姿を現した。何かあった? 何も。約束忘れてた? いや。アリスはジョゼフに農業共済保険の契約に必要な申請書類や手続について説明し、サインをもらう。お母様が亡くなって、犬と家畜しか話し相手がいないって言ってたわね。ジョゼフは何も答えない。あなたの手って素敵。アリスはジョゼフの左手に自分の手を重ねる。触って欲しい。アリスは椅子に座るジョゼフに跨がる形で繋がる。無口なジョゼフだが、それにしても今日は上の空だった。彼に1人にしてくれないかと求められたアリスは、あなたは良くなってるわと慰める。アリスが自宅へと車を走らせていると、雪原を抜ける見晴らしの良い車道の脇に停まった軽く雪を被った自動車と擦れ違う。キッチンで夕食の用意をしていると、今さっき擦れ違った自動車を運転していた女性が失踪したとテレビが報じていた。行方不明になっているのは、近くの別荘に滞在していたエヴェリヌ・デュカ(Valeria Bruni Tedeschi)で、別荘に滞在していなかった夫のギヨーム・デュカ(Roland Plantin)がインタヴューを受けていた。牛舎内の事務所にいる夫ミシェル(Denis Ménochet)にインターホンで食事の用意ができたと告げるが、出納処理で手が離せないという。アリスはタッパーに食事を詰めて事務所に向かう。コンピューターに向かう夫に食事を勧めるとやや慌てた様子でまだ切りがつかないと言う。アリスは父(Fred Ulysse)の部屋に向かい、食事を電子レンジで温める。夫婦の関係はあるのか。何言ってるの、父さん。翌日、アリスは老齢のカルヴェ夫人(Jenny Bellay)の家で夫人の代わりに電話で折衝に当たった。用件が一段落すると藪から棒に夫人がアリスに質問する。あなた夫を愛しているの? …愛していますよ、勿論。そう、なら良かったわ。事件に遭った女性はね、夫を愛していなかったのよ。帰宅したアリスのもとに、憲兵のセドリック・ヴィジエ(Bastien Bouillon)が訪ねてきた。アリスがコーヒーを出す。旨い。淹れたばかりだから。今日は女性の失踪事件の聞き込みで来たんだ。女性が道に迷っただけなら車の近くで発見されるはずだろ。あなたはこの辺りじゃ顔が広いから何か知らないかと思ってね。根も葉もない噂話くらいしか聞かないわ。ジョゼフ・ボンヌフィーユを知ってるかな? ええ、共済保険の加入者だから。母親を亡くしたことを気に病んでるわ。そこへミシェルが現れ、セドリックと挨拶を交わす。セドリックが立ち去ると、ミシェルは外回りにご執心の理由がジョゼフとの関係にあると仄めかし、変人相手に熱を上げると泣くことになるぞと言い捨てる。アリスはジョゼフの家へ車を走らせる。名前を呼んでも彼は姿を見せない。畜舎を確認し、納屋へ向かうと、ジョゼフの飼い犬が血だらけで死んでいた。突然背後から声をかけられ驚くアリス。積まれた干し草の陰からジョゼフが姿を現す。誰かに撃たれたんだ。その「誰か」を彼女は思い浮かべた。「話し相手」を奪われた彼の不幸を慮ってできる限りの愛情を注ごうとするアリスは、ジョゼフに対して愛を告白する。だがそんなアリスに俺は愛していないと告げ、ジョゼフは彼女に出て行けと言い放った。失踪事件、犬の死、何より愛するジョゼフの冷淡さ。失意のアリスは運転席に座ると、夫から投げつけられた言葉が思い返された。泣くまいと堪えるが、ハンドルを握りながら嗚咽がこみあげるのを抑えることはできなかった。

 

フランスのコース地方の冠雪した山道で、自動車が乗り捨てられているのが発見された。車の所有車である、近くの別荘に滞在中のエヴェリヌ・デュカ(Valeria Bruni Tedeschi)の姿は見つからなかった。一帯で農業共済組合の営業をしているアリス・ファランジュ(Laure Calamy)は、捜査に当たっている憲兵のセドリック・ヴィジエ(Bastien Bouillon)が、牧羊家ジョゼフ・ボンヌフィーユ(Damien Bonnard)の事件の関与を疑っていることを知る。彼は母親の死に際してとった行動で知られていた。

以下、全篇について触れる。

エヴェリヌ・デュカ失踪事件の真相が、主にアリスの視点の物語、主にジョゼフに纏わる物語といった形で登場人物ごとに描かれていく。その後、それまで登場していなかったマリオン(Nadia Tereszkiewicz)の物語が展開する点などに鑑賞を驚かせる構成の妙が効いている。冒頭、いったんアビジャンコートジボワール)を描いてからコース地方(フランス)へ飛ぶのも、そのような技巧の予告である。
冒頭では名前だけが登場するサヌー師は、精霊のお告げを求めに来たアルマン(Guy Roger N'drin)という青年に、事がうまく運んだときにそれが自分の才覚と思う愚かさを窘める。決定論的講釈を垂れられたところで、一旗揚げようとする血気盛んな青年は戸惑うばかり。その意味は身を以て知る他ない。そして、その決定論が、物語に通底している世界観となっている。アビジャンが冒頭に登場するのは、決定論の観点で世界を描くことの予告でもあったのだ。
サヌー師は、あるものを与えるのは快楽で、ないものを与えるのが愛であるとアルマンに告げる。
アリスは母親を亡くした孤独なジョゼフに愛情を注ぐ。一つ屋根の下に住みアリスがきちんと食事を作るにも拘わらず、ミシェルが妻と食卓を囲むことがないことが象徴するように、それはアリスがミシェルから得られなくなった愛情を埋め合わせることの裏返しでもある。だが、ジョゼフが求めるのは、母親の愛情であるために齟齬がある。干し草のブロックで組み立てる穴は子宮(≒母)であり、ジョゼフはそこに退行したい。それに対し飼い犬が象徴するのは触覚であり、「触れ合い」を求めるアリスのメタファーとなっている。ジョゼフは犬を殺して見せることで、アリスに対して自分が求めるのはセックスでないことを訴えていたのである。だがアリスはそれを理解しない。ジョゼフは母親との世界に沈潜すべく、誰も訪れないクレヴァス(が象徴する子宮)を目指すことになる。
原題は、愚か者や「けだもの」のような人間ばかりということだろう。端的に家畜だけが残された状況をも表している。邦題「悪なき殺人」は原題とはかけ離れているが、「飽くなき欲望」という意味をその音に籠めているのだろう。