可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 城蛍個展『デフォルマシオンの庭』

展覧会『城蛍「デフォルマシオンの庭」』を鑑賞しての備忘録
長亭ギャラリーにて、2021年12月18日~29日。

絵画17点と、それらにふさわしい環境を調えるべく、会場に施された造作とで構成される、城蛍の個展。

《夜の緑の下》は、道の脇に立つ1本の樹木と周囲の茂みとが灰色の空を背景に表わされた絵画(410mm×316mm×20mm)と、その下に絵画と垂直に壁面に固定された、恰も土中から発掘された化石のように獣の骨が彫り込まれた木の板(113mm×172mm×28mm)とから成る。後者を目にするとき、前者のモティーフである樹木は墓標となり、空は墓石と化す。
《空漠に煙が上がる》(455mm×530mm×88mm)の前景には、左右に上半身裸でデニムのパンツを穿いた男性が配され、それぞれのパンツには花束が挟まれている。花が供花に見えるのは、左右の対になっているのが墓などの花立を思わせるからだ。絵画の額縁を下で支える2本の角材も花立のイメージを増幅させている。男性の間から見える後景には、山並みが描かれている。右上の1箇所で火の手が上がり、白い煙が棚引いている。「供花」の間の火と煙とは線香の煙を容易に想起させる。さらに作品の背面には蓮の花が描かれた半球が取り付けられ、仏事(仏教)との結び付きを考えさせる。だが、ここではジェンダーの視点を導入して解釈してみたい。男性の腹部に立つ(≒勃起する)花束は端的に「男根」であろう。男性によって山(「山の神」であり、すなわち多くの場合、女性を象徴しよう)が囲われているのである。山の中に立つ火、そして煙は、狼煙である。男性によって閉じ込められてきた女性たちの反撃を伝えるのだ。
《あぜ道》は、東山魁夷の《道》を連想させる、画面下から上へ向けて延びる鋭角三角形の道を点描のような筆致で淡く表わした絵画(530mm×453mm×20mm)と、その左隣に車輪のような中心から放射線の延びる円を2つ彫り込んだ板(200mm×300mm×30mm)とから成る。荷車などが往き来する中で自然と道が形成される過程が、車輪とその回転のイメージが増幅させる。あぜ道は凹の部分であり、凸が男性だとすれば、女性を象徴しよう。なおかつ車輪を糸車として、女性を表わすものと解釈することも十分に可能である。
《空の重力》は、巻雲を描くもの(300mm×460mm×45mm)と高積雲を描くもの(256mm×315mm×45mm)との2点がある。それぞれの絵画は、台座のような板に、中央から外れる形で接着されている。そのズレは雲の動きの効果を生もうとするものかもしれない。さらに、2点は仮設の壁面に上下(巻雲と高積雲との位置関係)に掛けられ、なおかつ、その向かいに設置された木の壁の、それぞれの絵画の位置に開けられた円形の穴から覗いて鑑賞するようになっている。この「装置」が、鑑賞者の動きにより雲の動きを生み出すとともに、雲(空)との距離を感じさせる。穴(凹)から世界を見る。女性(凹)の視点で世界を眺める。
《とこよのくにへと》(690mm×1350mm×90mm)には草が疎らに生えるのみの土地が地平線まで続いている。左奥には一輪、罌粟の赤い花が咲いている。手前には穴が開くなど傷んだ緑色の金網フェンスが立ち、そこに3箇所に穴が開いたホースが掛けられ、今まさにミズを放出し始めたところ。それを見つめるのか、少女が右手前に佇んでいる。後ろ姿の少女の髪は、金色の中に黒い部分が覗き、染めてから時間が経っていることが分かる。垂らした三つ編みが風に吹かれ、右方向へ流されている。地平線の先には入道雲が姿を現し、夕立が近いことを告げている。絵画は木の板でできた細長い台座に乗せられて立てられていて、その台座の左側には白木の木の枝が2本立てられている。《とこよのくにへと》と同じ場所を舞台とする《おびやかされた彼女》(690mm×1350mm×90mm)では、少女の姿が見えない代わりに、虎の半身(胴・後ろ肢・尾)が画面左に覗く。金網フェンスには大きな穴が開き、罌粟の花は引き抜かれ、横倒しになっている。ホースの先から勢いよく出る水は上向きに噴出している。地平線の先には炎か煙かはたまた津波か、赤い壁のような流体が立ち上がっている。タイトルの「おびやかされた彼女」という言葉からは、フェンスを破って飛び出した虎によって《とこよのくにへと》の少女が襲われた(「おびやかされた」)ようにも読める。罌粟の花が手折られたこともその解釈を補強しそうである。だが、少女の金髪に黒い毛が覗いていたのは、縞模様の生成であり、少女が虎に変身することを予告するものであったのではないか。フェンスはもともと左端が途切れていて、虎の檻では無いことは明白だからである。「おびやかされた彼女」は、猛虎へと変じ、脅威に対して悠然と立ち向かうのだ。絵画の裏に描かれた三つ編みが構成する円は、「断髪」は少女であることを抛擲することを示すのだろう。それならば、《業について》を構成する絵画(210mm×147mm×20mm)に描かれた、緑色の金網フェンスを背景とした左手の握り拳もまた少女のものであろう。彼女の手首に記されたラテン語"ad nocendum potentes sumus"は「我々は危害を加える力を持っている」を意味することも、《とこよのくにへと》・《おびやかされた彼女》の「少女=虎」説が補強される。なお、《業について》を絵画とともに構成する、花束をX字形の木で柱に閉じ込めた箱状の作品(244mm×174mm×60mm)は、《空漠に煙が上がる》の「供花」が男性(≒男根)を象徴することから、男性を封じ込めた作品と言える。少女の握り拳の絵画とセットであるから、それは女性の力によって成し遂げられものたと解される。
《空洞》(271mm×447mm×45mm)は、左側に丸い穴が中央に空けられた箱状の板(但し背に当たる板はない)と、その右隣に並べられた、海を背景にした人物の頭像とから成る。海面には沖合まで横の波線が重ねられ、水平線上の島影を雲が広がる空が覆っている。この海の前に描かれた人物の頭部は、輪郭からそれと判断できるだけである。そこには浜とそこに打ち寄せる波、海と空、そして空を渡る鳥の群れとが(一見すると彫られているように見えるが)モノクロームで描かれている。海と「鳥」とを描いた《大家族(La grande famille)》やシルクハットの人物を描いた諸作品など、ルネ・マグリット(René Magritte)を想起させるイメージだ。人物が透過するように表わされているが、板に空けられた穴が作る空洞とは異なり、そこには確かにイメージが描かれて存在している。イメージは空洞とはなり得ない。だが、何もかも―たとえ海でも空でも―を受け容れる可能性を有するという点で、実際の空洞よりも絵画の方がはるかに空洞であるとも言える。因みに、この作品にも凹と凸との関係を見ることができる。
《海景》(835mm×1110mm×36mm)には、《空洞》の絵画に描かれたような海と島影と、その前景に木の枝とを描いた作品。海は《空洞》よりも穏やかで、月明かりを反映するような白い円が浮かぶのが見える。画面右側を前景の枝が覆う点は、《とこよのくにへと》・《おびやかされた彼女》の画面右側に描かれる金網フェンスを思わせる。海を見るとき、海だけを見ることがないように、絵画の鑑賞においても、周囲の環境に影響されないことはないということを、とりわけこの作品は訴えているように思われる。唐草模様の絨毯(?)を背景にした絵画《あなたに憧れて》(337mm×445mm×40mm)は天井際の壁の高い位置に設置されており、それを見るためには木箱を連ねたような仮設の階段を上がる必要がある。そして、そこに上ると、会場の全体を眺めることができる。角材に取り付けられて作品自体がカーブミラーに擬態する絵画《カーブミラーの丘》(483mm×645mm×20mm)や、梁の空隙に設置された木の幹(枝?)に雄雌のクワガタムシを描いた)《木》(250mm×100mm×60mm)は、サッシの縦のラインと響き合う。半球の木材に描いた作品、カーブミラーの楕円、《空洞》の穴、《おびやかされた彼女》の裏の三つ編みによる円、《空の重力》の手前に設置された覗き穴と、円のイメージが会場が増幅される。そして、何より、木(木目)が無機質なホワイト・キューブを浸食することで会場を作品世界へと引き寄せていく。それは作品の伝える社会の変容(déformation)をこそ伝えるインスタレーションとなっている。