可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 大久保紗也個展『We are defenseless./We are aggressive.(無防備なわたしたち/攻撃的なわたしたち)』

展覧会『大久保紗也展「We are defenseless./We are aggressive.(無防備なわたしたち/攻撃的なわたしたち)」』を鑑賞しての備忘録
MITSUKOSHI CONTEMPORARY GALLERYにて、2022年1月19日~31日。

22点の絵画で構成される、大久保紗也の個展。

《Art of self-defence》(1455mm×1120mm)は、明るい白の画面に、灰青・灰白などの絵具が盛られ、打ち付けられ、引き伸ばされて波濤のようなイメージが表わされる。その中に、マスキングにより上部のヴィリジアンや下部の白の下地を太い描線として覗かせることで、人物の輪郭が浮かび上がる。その人物は、右側から蹴り入れられた脚に対して、左腕を前に突き出し腰を落とす防御の姿勢をとっていることが分かる。絵具の荒々しい塗り方、マスキングで作られた力強い線と相俟って、混沌とした画面に表わされた格闘は激しさを伝える。とりわけ足の形がはっきりと描かれていることから、床に置いた画面に天井から吊したロープにぶら下がって足で描いた白髪一雄のアクション・ペインティングを想起させ(木製パネルに描いた《therapy/exorcism》と《Man with baton》では画面から周囲の縁にまで絵具が食み出すことでも激しさが伝わる)、恰も作家が画面(あるいは絵画)を相手に行なう「組手」のような作品に見えてくる。タイトルにある"art"はマーシャル・アーツ(martial arts)のような「技術」を指すのであろうが、画面は作家の格闘の場であり、作品は創作自体のメタファーとなっている。

《They(stop hitting, stop holding)》(1800mm×1500mm)は、クリーム色に塗った波板に、7本の腕が絡み合う様がマスキングによる太い線で描かれている。波板の凸の部分にはクリーム、灰、黄、青など様々な絵具が塗られているが、見る者に強く迫るのは、黒ないし暗緑色による描線である。複雑な関係を取り結ぶ腕ないし手である。手こそ芸術(art)の本源である。芸術とはそもそも手業(ars)のことであるからだ。そして、ホモ・ファーベル(Homo faber)としての人間を象徴するものでもある。作家が波板を支持体にしてそれらを表わしたのは、世界が剛体ではなく流体であるとの認識を示すためと考えられる。

 しかし、ウェザー・ワールド、あるいは海洋惑星こそが私たちが住む生態学的環境のリアリティである。私たちが住んでいるのは複雑な世界である。観測技術の発達した現代でも天気の予測が難しいのは、大気の運動は典型的な複雑系だからである。地震の予測も難しい。大地も流体だからである。私たちが生きている地表面は、その2つの流動の界面である。空気と水は、相互に働きあって、複雑な波形を作り出す。私たちは、その力を利用しながら、同時にその力に翻弄されてもいるセイラー、あるいは、サーファーなのである。そして、私たちが思い出すべきは、経済や政治など人間の社会的生活も同じく複雑系だということである。
 剛体の存在論をとるならば、私は固定的な本質をもった不動の存在とみなされる。世界はそれぞれ独立した剛体からできていて、私もそうした独立した剛体のひとつなのだ。確かに私はつねに交換していく流動的なものとして質料からできている。しかし剛体主義では、そこには私のアイデンティティはなく、固定的な鋳型にこそそれが求められる。たとえば、気質や性格のような心理学的な概念、自我や主観性の形式のような哲学的な概念は、そうした自己の不変の形相と見なされる。剛体の内部には、それを動かす動力や潜在性が潜んでいる。それが心と呼ばれるのである。
 (略)
 私たちの住んでいるのが、海洋惑星であるとすれば、剛体は流体の一様体にすぎない。私たちの存在自身がウェザー・ワールドの一部であるし、大きな大気と接している小さな海でもある。しかし剛体の存在論を奉じる男性たちは、空気や水を土に変えることができるという幻想にしがみついてきた。
 境界ということに関していえば、剛体の存在論は、境界が明確な対象をあらゆる存在のモデルとすることによって、テリトリーや所有の境界を画定し、その囲い込んだ場所を利用するという発想を生む。他方で、水と空気の存在論は、境界が明確ではなく浸潤し合う存在をモデルとすることで、世界を運動体として理解し、その運動を移動や運搬に利用するという発想を生む。移動して棲むことは動物の本質であり、固定的な家に住むことに先行する。しかし、もしこの惑星の基本様態が変転の止むことのないウェザー・ワールドであるなら、私たちは水と空気の存在論を採用しなければならない。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014年/p.116-119)

波濤の表現や波板の支持体、隙間の多い輪郭線、混沌としたイメージ。作家が描き出すのは、人々が「固定的な本質をもった不動の存在」ではなく、「境界が明確ではなく浸潤し合う存在」であること、そして彼らにより形成される世界である。