可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 中田愛美個展『Draw a straight line』

展覧会『中田愛美「Draw a straight line」』を鑑賞しての備忘録
humanité bisにて、2022年1月24日~29日。

絵画13点で構成される、中田愛美の個展。

《正確に均等 Ⅱ》(1620mm×1620mm)は、人の背丈ほどの高さがあるパネルを白く塗り込め、定規を使うこと無く鉛筆で直線を縦横に描いて、5cmの方眼を表わした作品。フリーハンドで引かれた直線は微妙にブレるため、方眼は歪んでいる。また、線を引いていく際に既に引かれた線に手が触れることで広がった黒鉛が、方眼の歪みとともに画面に変化を生んでいる。《複数の線の移動》(1620mm×1620mm)は、やはり白い画面に直線を鉛筆だけを用いて縦横比が3:1程度になる桝目を描き、それを消した上で右下方向に僅かにズレた位置に再度桝目を描き直した作品。

 定規を使ってラインを引く行為はフリーハンドでラインを描く行為とは明らかにまったく異なっている。ジョン・ラスキンが指摘したように、フリーハンドでは――もっとも熟練した者であっても――曲がったり方向がぶれたりしないラインを引くことはできない。「優れた製図工は、直線以外ならどんなラインでも引くことができる」とラスキンは述べた。だからラスキンは、絵を志す初心者が直線を引く練習をすることは無益だと考えた。製図工でも引けない、あるいは引けるようになる必要すらないというのに、直線を引くことに何の意味があるのだろうか?(ティム・インゴルド〔工藤晋〕『ラインズ 線の文化史』左右社/2014年/p.246-247)

まさに直線をフリーハンドで引く意味を鑑賞者に投げかける作品群である。直線自体の持つ性格から、その意味を考えてみよう。

 西洋社会の至るところで私たちは直線に出会う。直線があるはずの無い状況でも直線に出会う。直線は、近代性の仮想的イコン、すなわち自然界のうつろいやすさに対する合理的で明快な方向性をもつデザインの勝利の指標として登場した。近代的思考の徹底的な二項対立図式のなかで、直線は、物質に対抗する精神に、感覚知覚に対抗する理性的思考に、本能に対抗する知性に、伝統的な知恵に対抗する科学に、女性原理に対抗する男性原理に、原始性に対抗する文明に、そして――もっとも一般的なレベルにおいて――自然に対抗する文化に、しばしば結びつけられてきた。(ティム・インゴルド〔工藤晋〕『ラインズ 線の文化史』左右社/2014年/p.234-235)

近代的思考の二項対立図式を前提にしたとき、直線が男性原理であるなら、フリーハンドはそこに非直線(あるいは曲線)を、すなわち女性原理を導入するものと言える。画面の一辺の長さが日本人女性の平均身長に近いことも、それを裏付けよう。、

 (略)現代の都市デザインにおける直線的構成の至高の設計者である理性的人間は「直線的に歩く。なぜなら彼はゴール地点をもち、自分がどこに向かうのかを知っており、ある特定の場所に辿りつく決心を固めており、まっすぐそこに向かうからである」とル・コルビュジエは言った。理性的人間の考え方はその歩き方と同じであり、点から点へと躊躇せず脇道に逸れることなく進んでいく。ウォルター・オングが現代の分析的思考の「むだのないすじが通った」論理と呼ぶものもその延長線上にあり、それは「伝統的」社会に住む人々、とりわけ書き言葉をもたぬ人々に備わっているとされる曲がりくねった神話的=詩的直観としばしば比較されてきた。こうした比較を通じて、「直線的思考」は口承的伝統に対立する、文字による学問の特徴だと見なされるようになる。(ティム・インゴルド〔工藤晋〕『ラインズ 線の文化史』左右社/2014年/p.235)

直線は、「曲がりくねった神話的=詩的直観」に対して理性的・分析的思考を象徴するものとされる。フリーハンドにより引かれる直線は、「曲がりくねった神話的=詩的直観」を共存させる企てと言える。直線がグリッドを構成しているのが、その証左である。なぜなら、グリッドは「神話」として機能しうるからである。

 グリッドの特有な力、近代美術という特殊化された空間におけるその異例な長い生命は、こうした羞恥心を統御する潜在能力に起因する。それはこの羞恥心を、同時に隠蔽し、かつ顕わにするのだ。近代美術のカルティスト・スペース(熱狂的崇拝空間)において、グリッドはたんにエンブレム(標章)としてだけでなく、神話としても働く。とうのも、あらゆる神話と同様、それはパラドクスを解消したり、矛盾を解決したりすることによってではなく、それらを覆い隠して消え去ってしまったように思わせる(ただ思わせるだけだが)ことによって処理するからである。グリッドの神話的な力は、それがわれわれに唯物主義(あるいはときに科学、ないし論理)を相手にしていると思わせることができ、他方で同時にわれわれを信仰(あるいは幻覚、ないし虚構)のなかへと解き放つことができる点にある。(略)
 グリッドの成功が、その神話としての構造になんらかの仕方で結びついているということを私は示唆したわけだが、もちろん、神話という概念を通常の意味の限界を超えて用いた点で非難されるかもしれない。というのも、神話とはストーリー(物語)であり、あらゆるナラティヴ(叙述)と同じく時間のなかで解きほぐされるのに対して、グリッドはそもそも空間的なものであるばかりか、いかなる種類の叙述的ないしシーケンシャル(逐次的)読解も明らかに拒絶する視覚的構造だからだ。しかし、私がここで用いている神話の概念は、構造主義的な分析方法に基づいており、それによって物語のシーケンシャル(逐次的)な諸特性は空間的な組織を形成するように再配列されるのである。
 構造主義者たちがそうしたことを行なうのは、神話の機能を理解したいためであり、彼らはその機能を、矛盾を処理するための文化的企てとみなす。物語を空間化――たとえば、縦の欄に――することによって、彼らは矛盾の諸特性を陳列し、そしてそれらの諸特性が、ある特定の神話の筋が叙述によって対立を包み隠そうとする企ての下に横たわっている次第を示すことができる。こうして、種々の創造神話を分析しつつ、レヴィ=ストロースは、人間の起源をオートクソニー(自生)の過程(人は植物のように大地から生まれた)とする初期の考え方と、両親の性的関係を取りこんだ後の考え方との間に葛藤が存在することを発見する。初期の信仰形態は神聖不可侵であるがゆえに、性的事実や誕生についての常識的見方を侵すことになるとしても、維持されなくてはならない。神話の機能は、両方の見解を、ある種のパラ・ロジカル(擬似-論理的)な宙吊りのうちに保持することにある。(ロザリンド・E・クラウス〔谷川渥・小西信之〕『アヴァンギャルドのオリジナリティ モダニズムの神話』月曜社/2021年/p.26-28)