可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 森田舞個展『contrast 2022』

展覧会『東アジア絵画のなかへ 収斂と拡散 vol.6 森田舞 contrast 2022』を鑑賞しての備忘録
柴田悦子画廊にて、2022年2月7日~12日。

13点の絵画で構成される、森田舞の個展。

《ghost》には、濃紺の地に無数の微細な金の点が配されて、宇宙空間が表わされている。画面の右側には二日月のような金色の弧が懸かる。画面下側には瑠璃の円盤が浮き、円盤の下からエメラルドのガス(星雲?)か「二日月」とは反対に左に凸となる弧を描いて画面上方へと昇っている。画面の最前面には鮫らしき生物が、右向きに描かれている。その頭部側の半分は骨が描かれ、尾鰭に向かって真ん中あたりから骨が見えなくなる代わりに皮膚が描かれている。骨格は、化石あるいは死を介して、地中(地下)や夜を連想させる。ところで二日月が姿を現すのは宵の口の僅かな間である。「鮫」は死して――すなわち夜になって――間がない。そのためまだ一部しか骨になっていないのだ。二日月の鋭い弧は、冥府への沈潜という下降運動をも象徴するだろう。そして奥底に達した先に無辺の宇宙空間が接続する。エメラルドのガスの上昇運動は、そのような地と天との反転を表わす。極小と極大との接続と諸行無常とを表わす作品ではなかろうか。

出展作品中最大画面を持つ《覚》の下から6分の1~5分の1ほどは、右側に向かってやや高くなっていく岩地(あるいは波打つ水面?)に覆われている。その先(画面上側)には、溶岩の中の水が気化して急冷されたかのように、朱を背景に白い流体が渦巻いている。上方には画面の6分の1ほどを占める大きな黒い円が浮かんでいる。円の上部は画面の上端で切れ、その内部には星のような小さな点が鏤められている。頭部は描かれていないものの、龍と思しき青い鱗を持つ円筒形の長い体が、黒い円の周りをうねるように取り巻いている。

 〔引用者註:許慎『説文解字』における「龍」の字の解説によれば〕龍は鱗虫の長にして、能く幽く能く明るく、能く細く能く巨きく、能く短く能く長く、春分は天に登り、秋分には淵に潜む……
 龍という字そのものは、甲骨文字の龍と、昇ることを意味する童から構成されている。それは天に登ることのできる霊獣のことである。
 それにしても変幻自在な龍であり、天空と地上を自由に往来する。明暗、大小、巨細のいずれも自由自在である。字書の書き出しにもあるように、龍はウロコをもつもの(虫、動物)の王者なのである。
 春になれば、天にあって雨を降らせ、秋からは水中に深くひそむという龍である。これは雨を管理するとされる龍の理想的な姿である。(池上正治『龍の百科』新潮社〔新潮選書〕/2000年/p.71)

矩形の地と円形の天とは極小と極大とを表わすのであろう。龍は上昇運動と下降運動を象徴し、龍を生じさせる水(白く表わされているため、もはや水蒸気ではない)の渦は、あらゆる変化する事象を表現する。《覚》は、テーマにおいて、《ghost》と共通するものと考えられる。

表題作の1つである《contrast 2022 Ⅱ》は、横長の画面に、左手前と右手奥に2つの円盤ないし穴が存在し、そこからガスが立ち上っている。この円盤ないし穴のイメージは《ghost》と《覚》にそれぞれ表わされたものと等しいものと考えられる。ここでは1枚の画面に2つの円盤ないし穴を収めている。この円盤ないし穴は、おそらく「意味の場」であろう。

 わたしたちの生きている世界は、意味の場から意味の場への絶え間のない移行、それもほかに替えのきかない一回的な移行の動き、さまざまな意味の場の融合や入れ子の動きとして理解することができます。(マルクス・ガブリエル〔清水一浩〕『世界はなぜ存在しないのか』講談社講談社選書メチエ〕/2018年/p.142)

そして、《contrast 2022 Ⅱ》には、(8羽の)白い鳥が描かれている。鳥たちが左から右方向へ一方向に横断するように飛翔するのは、「意味の場から意味の場への絶え間のない移行、それもほかに替えのきかない一回的な移行」を表現するものであろう。鳥たちは、身体のそとに存在する感覚の表象である。

 わたしたちが認識しているいっさいのものを、わたしたちは何らかの感覚を通じて認識しています。そのさい当の感覚は、わたしたちの身体のなかにあるのではありません。むしろ身体のそとに、まさにネズミや果樹のように「そこに」ある。つまり「現実のなかに」あるいは「実在性のなかに」あるのです。これが意味しているのは、わたしたちの遠隔感覚、つまり視覚の地位を、もういちど批判的に評価し直さなければならないということです。(略)
 わたしたちは、無限なもののなかに道を切り拓いて進んでいます。わたしたちが認識するものは、どれも無限なものから切り取った断片にほかなりません。しかし無限なものそれ自体は、ひとつの全体でもなければ、超対象として存在しているものでもありません。むしろ存在しているのは、果てしない意味の炸裂です。わたしたち自身、この果てしない意味の炸裂に参与している。わたしたちの感覚は、潜在的には宇宙の最果てにも、またミクロコスモスにおけるほんの一瞬の出来事にも及んでいきうるからです。(略)すなわち、どんな物ごとでも、わたしたちに対して現象しているのとは異なっていることがありうる、ということです。それは、存在するいっさいのものが、無限に数多くの意味の場のなかに同時に現象しうるからにほかなりません。わたしたちが知覚しているとおりの在り方しかしていないものなど存在しない。むしろ無限に数多くの在り方でしか、何ものも存在しない。(マルクス・ガブリエル〔清水一浩〕『世界はなぜ存在しないのか』講談社講談社選書メチエ〕/2018年/p.290-291)