可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『選ばなかったみち』

映画『選ばなかったみち』を鑑賞しての備忘録
2020年製作イギリス・アメリカ合作映画。
86分。
監督・脚本・音楽は、サリー・ポッター(Sally Potter)。
撮影は、ロビー・ライアン(Robbie Ryan)。
美術は、カルロス・コンティ(Carlos Conti)。
衣装は、キャサリン・ジョージ(Catherine George)。
編集は、エミリー・オルシニ(Emilie Orsini)、サリー・ポッター(Sally Potter)、ジェイソン・レイトン(Jason Rayton)。
原題は、"The Roads Not Taken"。

 

ブザーが何度か鳴らされる。続いて電話が鳴る。部屋の中では、レオ(Javier Bardem)がベッドに横たわっている。窓からは轟音とともに高架を通り過ぎる銀色の車両が見える。
タクシーでモリー(Elle Fanning)が通話している。違うの。電話しても出ないの。ブザーは鳴ってる?
モリーがレオの家に到着し、声を掛けながら、ゼニア(Branka Katić)とともに部屋の中に入っていく。レオは虚ろな表情をしている。大丈夫? 電話に出なかったでしょ。ここにあるの分かってる、ドアを開けるボタン。…全部開いてる。実際は開いてないの、ドアは閉ってた。…そうか。
モリーが電話で話している。午前中には間に合いません。ええ、問題が発生して。でも後ほど伺います。父を歯科医に連れて行って、眼の検査も受けさせなくてはならなくて。いいえ、お昼までには戻ります。必ず伺います。
掃除機をかけていてたゼニアが、レオに気づいて声をかける。起きてます? …誰。ゼニアです。あなたはレオ。水が欲しいですか? ゼニアがコップに水を汲んで差し出す。何か探してるのね。写真が見たいですか? ネスターの? モリーが鏡に貼ってあった犬の写真を剥がしてレオに見せる。いい犬だったよね。覚えてないの? レオはメキシコで暮らしていたドロレス(Salma Hayek)に起こされる夢を見ている。今年こそ「死者の日」に一緒に行こうと自分を誘ったドロレス。…Mi amor(愛しの)...Dolores(ドロレス)。ドロレス? 誰なの? 今日、Juntos(一緒に)。そうよ、今日することにしているのは、一緒に歯医者に行くこと。覚えてる? …ドロレス。暑いでしょ、ここは。息苦しいわ。ボイラーの修理がまだなのね。窓を開けるわ。モリーが窓を開けると風が吹き込んでくる。レオはギリシャの海岸にあるミカエル(Dimitri Andreas)の酒場を思い出す。ミカエルが酒の入ったグラスをレオに差し出す。早くないか? 今朝は仕事しないのか? 作家っていうのは常に仕事をしてるんだ、ここでね。レオが頭を指して見せる。

 

メキシコ出身の作家レオ(Javier Bardem)は認知症が進行し、ヘルパーのゼニア(Branka Katić)に支えられながら、ニューヨークの一角で一人暮らしている。娘のモリー(Elle Fanning)が、歯科と眼科で検診を受けさせるために、レオの部屋を訪れる。朦朧としているレオは心ここにあらずといった様子で、時折スペイン語でつぶやいている。モリーはレオを何とかタクシーに乗せて歯科に向かうが、レオは歯科医の指示にうまく従うことができず、挙げ句失禁してしまう。

以下、全篇について触れる。

暑い部屋とベッドからメキシコでのドロレス(Salma Hayek)との生活を、窓から部屋に吹き込んで来た風からギリシャ海岸での滞在を、などというように、レオが過去の記憶へと思いを馳せるきっかけを設定することで、モリーやゼニアのいる現在と、記憶の中の過去とを往還させる。
歯科での失禁をきっかけに洋服を購入して着替えることで、眼科の待合室では、レオとモリーの衣装が似たものになることで、両者の結び付きを視覚化している。
メキシコ時代、ネスターを交通事故で失ったレオは、その原因が自らにあると自責の念に囚われていた。妻のドロレスから再三一緒に「死者の日」に参加しようと求められながら、足が向かなかった。それでも遂に「死者の日」に墓地に向かったレオは、墓石から何も聞こえないことを悲しむが、せめて息子の存在を感じるべきだとドロレスに説得される。ところで、モリーは、認知症の進行するレオがその場にいるにも拘わらず、医療関係者から度々"he"と三人称で名指されることに憤りを感じる(モリーはレオ同様、作家でもある)。この描写を踏まえれば、存在を感じるとは、失われた息子を三人称ではなく、二人称で捉えることに他ならない。だからこそ、モリーがレオの部屋を出て行っても、レオはモリーを二人称で(その場に存在するものとして)感じることが可能になるのである。
記憶の中のメキシコの橋とレオが徘徊して行き着くニューヨークの橋とは、「死者の日」をモティーフとしたアニメーション映画『リメンバー・ミー(Coco)』(2017)でも彼岸への架け橋であったように、レオとネスターとを結び付ける。
レオが、娘の面影を認めたアニー(Milena Tscharntke)に小説について意見を求めるシーン。故郷を離れて20年経った主人公は、帰郷するべきか。20年というのは人間にとって重みのある長さなのだろう(『御成敗式目』の年紀法や、現行民法の取得時効も20年だ)。それでも故郷を離れて20年のモリーがなお思慕を募らせるように、愛惜の念は年月に関係が無い。
スーパー・マーケットで女性(Ruth Keeling)から犬を盗んだとして糾弾されたレオは警備員(Olan Montgomery)に虐待される。後、レオが徘徊した際、彼を助けたレヒーム(Waleed Akhtar)は、「善きサマリア人」として描かれているのだろう。