可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『偶然と想像』

映画『濱口竜介短編集 偶然と想像』を鑑賞しての備忘録
2021年製作の日本映画。
121分。
監督・脚本は、濱口竜介
撮影は、飯岡幸子。
整音は、鈴木昭彦
録音は、城野直樹と黄永昌。
美術は、布部雅人と徐賢先。
スタイリストは、碓井章訓。
メイクは、須見有樹子。
カラリストは、田巻源太。

 

【第一話 魔法(よりもっと不確か)】
郊外の公園の丘で、モデルの芽衣子(古川琴音)が、数人のスタッフに囲まれて写真撮影を行なっている。グラフィティのある壁の前に移動すると、ヘアメイクのつぐみ(玄理)が用意していた帽子を被らせる。カメラマンがラップトップで最終チェックを行い、無事撮影が終了。芽衣子とつぐみは途中でワゴンを降り、スタッフと別れてタクシーに乗り込む。つぐみは出会ってすぐに恋に落ちたことがあるか芽衣子に尋ねた。つぐみは最近、打ち合わせで出会った男性と意気投合した件を芽衣子に語りたかったのだ。「つー」はイメージと違うって言われたの。「つぐみ」の「つ」ね、で彼は「かー」。「つーかー」だって。仕事のメールしかやり取りしてないから当然だけど、私話すとこんなじゃない? 彼はインテリア・デザイナーで投資もしてるって。青山に自宅兼事務所があるって。チャラくない? 彼とはお互いの境遇が似てて、話してると核に触れるっていうか。お茶でもどう、が、お酒呑みますか、になって。気付いたら15時間くらい経ってて。言葉を交わしてお互いをまさぐり合ってるみたいで。エロい? 私はいいよってサインを出してたんだけど…って今は出せないよ。別れた彼女のことが忘れられないって。え、2年前だって。長いよね。今までで最高の時間を過ごしたって。また会ってこの魔法が溶けていないか確かめようって。握手して別れたの。つぐみが先にタクシーを降りる。タクシーに残された芽衣子は運転手に今来た道を戻るよう伝える。

【第二話 扉は開けたままで】
東光大学の文学部の校舎。小さな教室では心理学科のゼミが行なわれている。指導教員が学生たちにガラス窓に付箋を貼らせ、それをもとに議論させている。すると、向かい側にあるフランス文学の瀬川幸治教授(渋川清彦)の研究室から、内定が決まっている云々と学生の大きな声が聞こえてくる。佐々木(甲斐翔真)が土下座して単位取得を教授に懇願していたのだ。心理学の教員が慌ててドアを閉めようとする。アカハラだと思われますよ。だからドアは開けておいて下さい。
5ヶ月後。佐々木の部屋を奈緒(森郁月)が訪れると、佐々木はすぐさま奈緒にキスを浴びせ、服を脱がせる。佐々木がシャワー浴びてベッドに戻ると、奈緒はもう服を身につけていた。佐々木は再び奈緒を抱こうとするが、奈緒は娘の迎えにいくからと佐々木をいなす。佐々木は奈緒には壁があるとみんなが言ってると告げる。みんなって誰? みんな。だからゼミ合宿の連絡も回ってこないんだよ。佐々木は奈緒を揶揄うが、人妻の奈緒は動じない。テレビを付けると、瀬川教授の芥川賞受賞のニュースが流れていた。留年した佐々木は、内定先のテレビ局でキャスターを務めていたらと想像する。私、今この本持ってる。奈緒はバッグから『サントロペの虹』を取り出す。瀬川先生って涸れてると思ってたらそうでもなかった。奈緒はお気に入りの部分を佐々木に読ませる。小説の性的描写に触れた佐々木は、瀬川教授にハニ-・トラップを仕掛ける奸策を思いつく。瀬川は俺の人生を奪ったんだから、俺にはあいつの人生を奪う権利があるだろ。やってくんなきゃ、もうセックスしないし、キャンパスでも完全に無視だよ。佐々木は奈緒を瀬川教授の研究室に送り込む。

【第三話 もう一度】
コンピュータ-・ウィルス"Xeron"は、保存されたファイルを過去にやり取りのあったアドレス宛に無作為に送付し、ウイルスの感染を拡大させる。2019年末の発見以来、ウィルス感染によりあらゆる機密が流出することになった。防衛策として、当面インターネットへの接続を切断し、コミュニケーションは郵便・電信へ切り替えられることとなった。この措置がいつまで続けられるのかは定かではない。
夏子(占部房子)が、青葉繁れるケヤキ並木を闊歩している。久しぶりの故郷・仙台。東京でSEをしていたが"Xeron"の影響で休職を余儀なくされ、母校・宮城女学院の同窓会に思い切って参加することにしたのだ。だが久々に顔を合わせる同級生たちに見知った顔はいない。話の輪に入れない夏子に、1人の女性(大沢まりを)が声をかけてきた。お互い、誰だか分からない。彼女は清宮と名乗った。世界史の授業は好きだったけどね。先生を呼ぼうか? いいよ、気まずくなるだけだから。清宮に二次会に行かないかと声をかけられたが、夏子は断り、宿泊先のビジネスホテルに向かった。
翌日、夏子は、1人昔通ったかつ丼屋へ向かう。昔と変わらぬ美味しさに感激した夏子は、店主に声をかける。大将は夏子のことを覚えてはいないと正直に言いつつも、喜んでくれた。帰京するため仙台駅に向かう。ペデストリアン・デッキに上がるエスカレーターで、「みか」(河井青葉)の姿を見かける。夏子が再会を願っていた同級生だった。エスカレーターを昇りきった夏子は慌てて降る。すると「みか」もまた夏子に会おうと昇ってきたところだった。上で待ってて。夏子はペデストリアン・デッキで「みか」との念願の再会を果たす。どうしたの? 同窓会で。同窓会の連絡なんて無かったけど。時間があるならお茶でもどう? 変な話だけど、荷物を家で受けとらなければならないの。良ければ家に来ない? お茶くらい出せるから。ここから歩いて15分くらい。夏子は「みか」の家にお邪魔することにする。「みか」の家の表札には「小林」とあった。

 

3つの短編で構成される。「第一話 魔法(よりもっと不確か)」の前半は、モデルの芽衣子(古川琴音)が撮影を終えて帰るタクシーの中で、友人であるヘアメイクのつぐみ(玄理)から最近仕事で知り合った男性の話を聞く形で進行する。いつもなら自分が興味を持たないタイプだったが、話し始めると会話は尽きず、芽衣子に言っていないことまで伝えてしまったと、抜群に相性が良い彼との運命的な出会いを熱っぽく語る。芽衣子はつぐみの語る彼の特徴から、彼が2年前にフラれて今なお思いを断ち切れない相手というのが自分だと気が付く。「第二話 扉は開けたままで」は、テレビ局に内定が決まっていた大学生・佐々木(甲斐翔真)が、瀬川幸治教授(渋川清彦)から単位を得られず留年したことから逆恨みし、ハニー・トラップで瀬川を追い落とそうとした出来事の顚末を描く。佐々木は、ゼミの同期だが人妻で周囲から浮いている奈緒(森郁月)と密かに関係を持っていたことから、彼女を瀬川のもとに送り込む。芥川賞受賞作品について質問したいと研究室を訪ねた奈緒を、担当したフランス語の授業で熱心に質問していた学生だと、瀬川は覚えていてくれた。「第三話 もう一度」は、東京でSEをしていた夏子(占部房子)が、高校の同窓会をきっかけに久々に故郷・仙台を訪れ、同級生の「ゆうきみか」にかつて伝えられなかった思いを打ち明けようとする物語。同窓会で出会えず終いで帰京しようとして夏子は、駅の近くで偶然「みか」と擦れ違う。夏子がかつて交際していた「みか」は、製薬会社の研究員と結婚し、高校生の息子と中学生の娘と、仙台で平穏に暮らしていた。夏子は「みか」に幸せかと単刀直入に質問する。

以下、全篇について触れる。

他に選択の余地がなければ、必然的と言える。他にも可能性があったなら、現に生じた出来事は、偶然となる。ある出来事が偶然となるには、可能性を育む想像の力が必要となる。

 科学的な言説が採用する方法は、小説の本性に反している。科学の場合には、出来事は抽象的で一般的な類型としてのみ認識される。それに対して、小説にとっては、内容の具体性、そこで描かれた出来事の具体性こそが命である。小説の中で生起する出来事は、一般的な類型の一事例ではない。小説の内容をなす出来事の連なりの「類型には還元できない具体性」こそが、小説を小説たらしめている。小説の中で次々と生起するいくつもの出来事の特殊性の全体が、それらを経験する主人公の個人としての特異性を――「他でもないこの私」と言われるような特異性を――浮き彫りにする。(略)
 小説の内容のこうした具体性が、叙述されている出来事の偶然性として現れる。(小説のなかの)出来事は、一般法則の中に回収できない具体的な細部がある。その部分に関しては、偶然そうなった、としか言いようがないではないか。具体性と偶然性は、このように表裏一体の関係にある。
 だが、まだ先がある。それが偶然であるということは、「それだけではない」「それに尽きない」という様態でそれが現れている、ということを意味している。偶然ということは、定義上、「他でもありえた」ということである。つまり、出来事は、現実化している「それ」だけではなく、「他でもありえた」ということである。つまり、出来事は、現実化している「それ」だけではなく「ありえた他なるもの」への指示を伴っているからこそ、偶然の生起なのだ。このことを別の表現で言い換えれば、偶然の出来事をそのまま具体的に――現実のこととして――記述するとき、何かが排除されている、何かが抑圧されている、という印象を不可避に与えるということでもある。(大澤真幸『〈世界史〉の哲学 近代篇Ⅰ 〈主体〉の誕生』講談社/2021年/p.513-514)

「第一話 魔法(よりもっと不確か)」では、友人のつぐみ(玄理)がキラキラしている理由が、最近知り合った男性にあることを芽衣子(古川琴音)が知る。時が経つのを忘れて、お互い深い話を交わしたのだという。しかもその男性が実は芽衣子のかつての交際相手・和明(中島歩)であることに気が付く。仕事も軌道に乗って事業を拡大している和明は、未だに芽衣子のことを引き摺っているらしい。彼と別れたことが間違いだったのではないかという気持ちが広がっていくのに耐えられなくなった芽衣子は急遽、和明のもとを訪れる。彼がつぐみとの会話で生まれた魔法がかかったような時間が訪れるか、芽衣子は試したい。つぐみとの関係を始めようとしている矢先、思い寄せていた芽衣子の突然の訪問に和明は戸惑う。芽衣子の美点が正直にあることを弁えている和明は、自分の気持ちが分からないという芽衣子を拒絶できない、己の不甲斐なさを怒りの爆発で発散させることしか出来ない。和明もまた芽衣子との再会により、自分の気持ちが分からなくなっていた。芽衣子とつぐみがお茶をしていると、偶然和明が通りかかる。和明が思いを断ち切れない相手というのが芽衣子であることを知らないつぐみは、初対面だろう2人を紹介する。芽衣子は自分が和明の想いを寄せる元恋人であることを告げると、ショックを受けたつぐみは店を飛び出す。…そのような展開もありえたであろうが、芽衣子は2人に時間を過ごしてもらおうと店を出て行く。

 現実の人生の展開が偶有性の様相を帯びているということは、他のありえた可能性が、見てきたように、「抑圧されたものの回帰」の形式で現実にたち現われ、幽霊のようにとり憑くことである。このとき、同時に、次のような逆転が生ずるのではないか。この偶然の現実が、他なる可能性の否定を前提にしてこそ成り立っているのだとすれば、後者の現実化していなかった可能性の方がより本来的であり、現実よりもいっそう、私にとって真実だということになる。(略)
 ここで、まことに正確に、ヘーゲル弁証法でいうところの「否定の否定」の論理が作用している。「否定の否定」とは、否定されていることが、実際にはもとの「肯定されているもの」よりもいっそう徹底的に肯定されているという意味である。現実の人生の物語が立ち現われる上で否定された可能性の方が、現実よりも深い真実を含んでいるように感じられるとき、まさに「否定の否定」の論理が働いている。
 そして、この論理こそが、小説における「虚構性の勃興」を説明するのである。現実が偶然性を帯びているとき、その現実をまさに偶然性として際立たせる上で背景になっている、現実化しなかった可能性がある。こちらの可能性にこそ真実を見出し、これをプロットの軸に据えたとき、小説は、現実から切り離された虚構性そのものの中に真実を見出すのだ。そのプロットは、虚構であるがゆえにますます真実であり、これを採用している小説は、現実を単純に模写する小説よりおなおいっそうリアリズムに深く傾倒していることになる。(大澤真幸『〈世界史〉の哲学 近代篇Ⅰ 〈主体〉の誕生』講談社/2021年/p.540-541)

「第二話 扉は開けたままで」において、大学4年生の奈緒(森郁月)は、結婚して娘を儲けてから心理学を学ぶために大学に入った。周囲に対して壁を作っていると、ゼミの同期で密かに情交を結んでいる佐々木(甲斐翔真)から指摘される。留年した佐々木は単位を認めなかった瀬川教授(渋川清彦)を逆恨みして、奈緒を使ってハニー・トラップを仕掛ける。瀬川教授は担当したフランス語の授業で熱心な生徒だったと奈緒を覚えていた。奈緒は瀬川教授の芥川賞受賞作『サントロペの虹』の、ある頁を開き、サインを求める。奈緒が気に入っているのは性的な場面で、教授のサインが入れられた頁を奈緒が声に出して読み始める。教授は奈緒の誘惑に動じなかった。教授は、自らを蔑み、性的な欲求に弱いと打ち明ける奈緒に、周囲とは異なる価値基準を持っていると指摘し、自分固有の物差しを大切にするよう助言する(これは映画制作者らへの監督からの激励でもあろう)。奈緒の朗読した場面は、主人公の陰嚢を剃毛して口に含み、左右の睾丸を舌で確かめる女性の描写であるが、彼女の舌こそ彼女固有の物差しである。そして、その女性が奈緒に比せられるなら、主人公は筆者である瀬川教授であり、奈緒は朗読(≒舌)によって、瀬川教授を愛撫していたのだ。「第一話」においても、つぐみと和明との間で、会話(≒舌)が愛撫のように働いたことが表わされるが、それは、言葉(≒舌)によって相手(鑑賞者)に触れようとする作品(会話劇)自体の構造をも示すものである。

「第三話 もう一度」の夏子(占部房子)は、女子校の同級生である「ゆうきみか」に再会するため、久々に同窓会に参加するが、会うことは叶わなかった。ところが帰京のために駅へ向かっていると、「ゆうきみか」(河井青葉)と偶然に擦れ違う。自宅に招待された夏子は、彼女に幸せかどうか単刀直入に尋ねる。東京に出た夏子は、仙台に残った「ゆうきみか」と交際していたが、「ゆうきみか」が男性と交際したのをきっかけに音信不通となっていたのだった。夏子にとっては、交際相手は彼女以外にはあり得ない、運命の女性だった。ところが、目の前にいる女性は「ゆうきみか」ではなかった。彼女は夏子の気持ちを察して、「ゆうきみか」を演じると申し出る。夏子は彼女以外にはあり得ないはずの女性を別人と取り違えていた。長年の空白は、忘れがたい恋人を想像の中だけで育むことになった。その結果「ゆうきみか」という別人と出会うことになった。仮にゆうきみか本人に出会えていた場合、夏子の心の中にいる彼女との齟齬が生じなかったであろうか。本人に会えなかったからこそ、想像の(あるいは理想の)「ゆうきみか」が存続し得たのだ。