展覧会『堀込幸枝「Daydream」』を鑑賞しての備忘録
ギャラリー椿(GT2)にて、2022年2月26日~3月12日。
絵画11点で構成される、堀込幸枝の個展。
《Daydream 2》(1165mm×910mm)は、奥に数段の階段も見える灰色の広い空間に、大理石製であろうか、白っぽい女性の立像が設置されていて、その像を斜め後方の高い位置から俯瞰して描いた作品。像の背後と右斜め前に向かう影が、像に当てられたスポットライトの存在を示唆する。《Daydream 1》(1305mm×1620mm)には、天井から吊り下げられたサメの模型(?)が見上げるように描かれている。奥にある窓から射す光とともに、天井に設置された複数の照明が目に入る。この他にも、展示台に載せられた鳥の形の遺物を描いた《Bird figure and Bird head》(455mm×380mm)など、ミュージアムの展示品を描いた作品、否、展示空間、台座、照明などを含めた「展示」を描いた作品が柱の1つとなっている。
〔引用者補記:英語・フランス語で展示を意味する〕expositionとは万国博覧会の「博覧会」に相当する語である。すると次第に明らかになると思うが「展示」するとは、今日われわれが考えているようにだれにでも許された行為でないことは明らかになるはずである。江戸時代以前、市中に、また街道に考察を掲げることでさえ政府の特権であった。だれかが自分の意見を披瀝したい場合は「落書」(詩歌体のときは落首)という形で匿名でひそかに門や壁などに貼(粘)り出すしなかなかった。佐倉惣五郎伝説ではないが、「直訴状」を提出しただけで一家全員死罪の憂き目を見なくてはならないこともあるという時代に、たとえ反体制や政治批判の画文や風刺画文でなく、それが芸術作品であっても神社の絵馬堂以外のどこに「展示」することができたであろうか。「席画会」という会衆の注文に応じて画家が作品を提供できる場はあったが、画廊はもちろん、展覧会場もない時代の「展示」とはどのようなものであったろうか。「御開帳」という寺院の特定の仏像や御神体を「展示」する特定日が設けられたり、また出開帳というかたちで繁華な場所に出向いて秘仏公開という日時を限定した「展示」をおこなうこともあった。またあの有名な平賀源内の提唱になる「物産会」という展示も存在した。しかし、そうではあっても「展示」とは単に物をディスプレイして人に見せることでなもなく、商行為として演劇、娯楽、珍奇物を対価を得て見せるということでもない。それはいわゆる「興業」であって「展示」とは区別されるべきものである。
そうすると、もうすこしよく見えてきたが、明治時代以前の日本には厳密な意味での「展示」というものがなかったということができる。展示とはエクスポジションである。「ディスプレイ」のような人目を引くために視線誘導的に物品を陳列配置するだけのことでもなく、「ショウ」のように娯楽のために見せ物を提供することだけとも違う。つまりエクスポジション、「展示」とは公権力が「公衆」を創出、育成していくための「視線の政治学」である。(松宮秀治『芸術崇拝の思想 政教分離とヨーロッパの新しい神』白水社/2008年/p.275-276)
近代国家は、国家の構成員(国民)を創出するため、ミュージアムという「近代の新しい神々を創出し、その聖遺物を保管し、近代の新しい教会としての祝祭空間を作り出す制度」を設けた(松宮秀治『芸術崇拝の思想 政教分離とヨーロッパの新しい神』白水社/2008年/p.113参照)。ミュージアムにおける「『展示』とは公権力が『公衆』を創出、育成していくための」ものなのだ。
へだたりを絶対の条件とする視覚は、見る主体を事物から疎隔し、あらゆる事物を対象と化してしまうはたらきをもつ。近代は、そのような視覚のはたらきを極度に、しかも他の諸知覚を差し置いて、一方的に発達させることによって確立されたわけで、〔引用者補記:高橋〕由一たちが必死に学びとろうとした写実画報、とりわけ透視遠近画法は、こうした近代の在り方を示す典型的事例であり、博物館や博覧会もまた視覚の時代の産物であった。このような視覚への傾斜は「螺旋展画閣」〔引用者註:高橋由一の構想した絵画館〕の遠望台に象徴されているともいえるし、博物館の本質的なガラス・ケースにも見出される。ガラス・ケースとは、視覚に必要なへだたりが物質化された存在にほかならないのである。それは、見る者と事物のあいだに不可侵の距離を設け、事物を視覚の対象として固定することで事物との接触を断ち、その結果として、見ることにのみ集中する構えを来館者にとらせるのだ。(北澤憲昭『眼の神殿―「美術」受容史ノート[定本]』ブリュッケ/2010年/p.169)
作家は展示物ではなく展示を描くにあたり、あえて鮮明さを失わせ、暈けるように表現することを選んでいる。「見ることにのみ集中する構え」を敢て困難にしているのだ。それは、新型コロナウィルス感染症が猖獗を極める中、ミュージアムが休館し、鑑賞体験がヴァーチャル・ツアーへ置き換わっていったことを表現するものではないか。展示品そのもではなく展示品の展示状況(そこに鑑賞者の姿は一切無い)を描き出した絵画を並べた展覧会場は、絵画の画面をモニター(画面)とする「ヴァーチャル・ツアー」のアナロジーとなっているからだ。ガラス・ケースが「視覚に必要なへだたりが物質化された存在」であるなら、逆にヴァーチャル・ツアーを鑑賞するモニター(画面)は展示品とのへだたりを消去する装置である。「不可侵の距離」の消失は、近代の教会の機能の喪失である。のみならず、鑑賞体験そのもにおいても喪失された何かが存在する。曖昧な画面は、その喪失の表現とも言える。