展覧会『遠藤利克』を鑑賞しての備忘録
SCAI THE BATHHOUSEにて、2022年3月8日~5月14日。
中央の床に設置された、燃やされて真っ黒く焼け焦げた木製の直方体《空洞説―鏡像の柩》と、それを見下ろすように壁に設置された鉛の直方体の箱《空洞説―鉛の柩》とを、両作品の習作7点と併せて展示する、遠藤利克の個展。
《空洞説―鏡像の柩》は、木で作られた直方体の立体作品。全体が満遍なく焼かれ、黒く炭化した姿を見せている。この作品の習作である《空洞説―鏡像の柩のためのプラン 9》を参照すると、この直方体の内部の空洞にはガラスが貼られているらしい。このマケットは実際にガスバーナーか何かで焼かれており、ガラスや盤陀が溶け残っている。鏡は神鏡を介して太陽を連想させるが、タイトルには鏡ではなく鏡像とある。内部の空洞とそこに現れた鏡像の消失=焼失とは何を意味するのであろうか。
(略)しかし、既に明らかにしたように、『古事記』神話において中心を占めるものは、アメノミナカヌシ-ツクヨミ-ホスセリ、で示されるように、地位あるいは場所はあるが実体もはたらきもないものである。それは、権威あるもの、権力をもつものによる統合のモデルではなく、力もはたらきももたない中心が相対立する力を適当に均衡せしめているモデルを提供するものである。
中心が空であることは、善悪、正邪の判断を相対化する。統合を行なうためには、統合に必要な原理や力を必要とし、絶対化された中心は、相容れぬものを周辺部に追いやってしまうのである。空を中心とするとき、統合するものを決定すべき、決定的な戦いを避けることができる。それは対立するものの共存を許すモデルである。
中心が空であることは、一面極めて不安であり、何かを中心におきたくなるのも人間の心理傾向であるとも言える。そこで、筆者が日本神話の(従って日本人の心の)構造として心に描くものは、中空の球の表面に互いに適切な関係をもちつつバランスをとって配置されている神々の姿である。ただ、人間がこの中空の球状マンダラをそのまま把握し、意識化することは極めて困難であり、それはしばしば、二次元平面に投影された円として意識される。つまり、それは投影される平面に応じて何らかの中心をもつことになる。しかし、その中心は絶対的ではなく投影面が変われば(状況が変れば)、中心も変るのである。(略)
(略)
中心を空として把握することは困難であり、それは一時的にせよ、何らかの中心をもつものとして意識されることを既に指摘した。このことは、日本人特有の中心に対する強いアンビバレンツを生ぜしめることになる。つまり、新しいものをすぐに取り入れる点では、中空性を反映しているが、その補償作用として、自分の投影した中心に対する強い執着心をもつ。あらゆる点において、日本人は自分が「中心」と感じているものには執着し、高い関心を払う。しかし、時が来てその「中心」の内容が変化すると、以前に中央に存在していたものに対する関心は消え失せ、新しい「中心」に関心を払うのである。(河合隼雄『中空構造日本の深層』中央公論新社〔中公文庫〕/1999年/p.47-49)
「鏡像」が表わすのは、「自分の投影した中心」ではないか。「鏡像の柩」とは、「時が来てその『中心』の内容が変化すると、以前に中央に存在していたものに対する関心は消え失せ」てしまうことの表現と解される。「柩」が燃やされているのは、空気=雰囲気(atmosphere)による燃焼=炎上という、「ネット世論」の影響を反映しているように見える。
《空洞説―鉛の柩》は、《空洞説―鏡像の柩》と異なり、蓋が外されるように内部の空洞が露わにされている。《空洞説―鏡像の柩》を燃焼=炎上させる空気(atmosphere)を供給する働きが示されている。