可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 朴栖甫個展

展覧会『朴栖甫展』を鑑賞しての備忘録
東京画廊+BTAPにて、2022年3月26日~5月7日。

キャンヴァスに韓紙を用いて立体的な線条を繰り返し表わす「後期描法」シリーズ絵画13点とそのエスキース1点とで構成される、朴栖甫(박서보)の個展。

《Ecriture No.101012》(1300mm×900mm)は、灰色に塗られたキャンヴァスに、鮮やかなピンクの縦縞を規則的に繰り返し連ねた作品。縞は水に浸した韓紙を線条に成形した上で着彩したもので肥痩があるため、幾何学的な形を規則的に表わす作品でありながら無機質な印象を受けない。それぞれの縦縞が山状に盛り上がっていることに加え、作品自体が壁から10cmほど浮かせて設置されていることで、立体作品のような印象を受ける。横方向から眺めると、盛り上がった縦縞が地を隠すため、ピンク色の陰翳のみとなって姿を現わす。
《Ecriture No.140112》(130mm×200mm》は、暗い臙脂の画面に鮮やかな朱の縦縞を規則的に繰り返した作品。朱の縞を表わさず臙脂の地が覗く開口部のような矩形が、左上から右下に向かって6つ重ならないように雁行する。矩形は郵便受けの差し入れ口のように横に長い。上辺の右側だけ(貼り付けない韓紙で成形したものであろうか)朱の横線が庇のように取り付けられ、地の臙脂に影を落としている。
《Ecriture No.100520》(1120mm×1453mm)は、灰色の画面に、淡いピンク色の縦縞を規則的に繰り返し表わした作品。中央下部に唐紙を貼らず灰色の地が覗く矩形が表わされ、その上辺には縦縞と同じ構造の庇のような線が入れられているため、画面全体は建物とその入口のような印象を生んでいる。

「後期描法」は、2000年秋の個展に合わせて来日した際、磐梯山の紅葉が刻々と表情を変化させるのを目にしたのをきっかけに始まったという。

 (略)地形においては、幾何学的な線が構成要素の位置を定め、有機的な線は表わされた形状の範囲を定める。ところが抽象的な線は、大地と空の世界にあるものが生成していく様を予期する。このような世界において、線は表象上の慣習によって印されるものではなく、点と点を結ぶものでもない。線はむしろ成長や運動のなかで定められるのだ。ゴヤはこのようにいった。自然を見なさい、景色として。そこに線など見えないはずだ。線が存在するのは、自然を図像で表わすときだけだ。だが、自然とともに見るときには、それを大地と空の集合体としてとらえ、自然が形成する運動に加われば、線はいたるところにある。なぜなら、まさにそのような線に従って、わたしたち人間や他の生き物は生きているからだ、と。(ティム・インゴルド〔金子遊・水野友美子・小林耕二〕『メイキング 人類学・考古学・芸術・建築』左右社/2017年/p.287)

ゴヤは、「自然とともに見る」すなわち「自然が形成する運動に加わ」るとき、「線はいたるところにある」と言う。

 (略)1953年に書かれた魅力的なスケッチにおいて、カンディンスキーは、魚と線の類似点と相違点を読者に考えさせようとする。魚と線には共通点がある。両者はともに内側に宿る力によって生き生きとし、その力は直線運動にあらわれる。水中を全力で泳ぐ魚は、線かもしれない。だが魚は依然として外界(有機体とその環境から成る世界)のなかにいる生き物であり、存在するためにこの世界に依存している。対照的に線はそうではない。線は命そのものであり、それ以上でもそれ以下でもない。カンディンスキーによれば、そのことがまさに彼が絵を描くときに、魚よりも線を好んだ理由である。(ティム・インゴルド〔金子遊・水野友美子・小林耕二〕『メイキング 人類学・考古学・芸術・建築』左右社/2017年/p.284)

カンディンスキーは、「線は命そのものであり、それ以上でもそれ以下でもない」と捉えているらしい。

 物質は二度折り畳まれる。一度は弾性的な力のもとで、もう1度は可塑的な力のもとで。そして第一の力から第二の力に移行することはできない。したがって宇宙は巨大な生物ではなく、それ自体として〈動物〉なのではない。ライプニッツは〈普遍的精神〉の仮説を拒否するのと同じく、このような仮説を拒否する。そして有機体は還元しがたい個体性を確保し、有機的なものの系譜は、還元しがたい複数性を確保している。それでもまだ2種類の力、2種類の襞、もろもろの塊りと有機体は、厳密に外延を同じくする。無機的物質の部分に劣らない数の生物が存在する。確かに外部環境は1つの生物ではない。しかしそれは湖であり池であり、つまり生け簀なのである。湖や池への言及はな、ここで新たな意味を帯びる。池や、また同じく大理石の板は、もはや無機的な襞としてそれらを貫く弾性の波動にかかわるのではなく、有機的な襞としてそこに住みつく魚にかかわるのである。そして生物そのものにおいては、それが含む内部環境は、さらに別の魚で一杯の別の生け簀なのである。つまり1つの「蝟集」なのだ。環境をなす無機的な襞は、2つの有機的な襞の間を通過する。ライプニッツにおいても、バロックにおいても、理性の諸原理とは、まさにこういう叫びである。「すべてが魚ではないが、いたるところに魚がいる……生物の普遍性ではなく、偏在性が存在する。」(ジル・ドゥルーズ宇野邦一〕『襞 ライプニッツバロック〔新装版〕』河出書房新社/2015年/p.20)

魚(個々の生物)は死ぬが、それでも「いたるところに魚がいる」。魚すなわち生物の偏在性を貫いているのは、カンディンスキーの言うところの「線」なのかもしれない。

朴栖甫の「後期描法」シリーズの絵画に表わされる線は、描かれた(着彩された)ものであるとともに、韓紙の褶曲すなわち襞によって得られたものである。線=襞は生命であるとともにその「生け簀」という外部環境でもある。空白(韓紙の貼られていない部分)の存在は線すなわち生命の断絶であるが、それにも拘わらず線は果てしなく続いていく。