可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 平手個展『拳に綿を詰める』

展覧会『第23回グラフィック「1_WALL」グランプリ受賞者個展 平手展「拳に綿を詰める」』を鑑賞しての備忘録
ガーディアン・ガーデンにて、2022年4月12日~5月21日。

人間の着ぐるみ(人の形をした、衣装のように着脱可能な人形)と、それらと作者らとのやり取りを描いた映像・写真・漫画作品群から成る、平手の個展。

蹲る「人物」、椅子に座る「人物」、歯を剥き出しにして立ちはだかる「人物」、工場作業員のような「人物」、幽霊のような「人物」、背負って持ち運ぶことのできる「人物」が会場に点在している。それぞれの「人物」に纏わるエピソードについては、場内で上映されている映像、展示されている写真、閲覧可能な写真集や漫画で知ることができる。会場には「平手」の「住居」や、2本の電信柱と電線なども設置されていて、作家のテーマ・パークとして構想されたことが分かる。虚実が混在した「かながわStyle 4月号」なるフリーペーパー(少なくとも本展自体の開催情報については事実)も配布され、来場者に対し、作家の世界への没入を促している。
硬いはずの壁や電信柱が歪んで柔らかく表現されている点や、乳房に擬態した胸当てに蟻を集らせている点から、サルバドール・ダリの作品が連想される。ダリを介して展覧会場は過剰な現実(Surréalism)へと変容させられている。そして、作者が制作した人の姿をした着脱可能な人形は、卓越したラビが土塊から造り出した亜人であり人間未満の存在である「ゴーレム」に擬えられよう(金森修『ゴーレムの生命論』平凡社平凡社新書〕/2010年/p.7, 21, 103など参照)。

 要するに、他者に対して、さらには自分自身に対して、より俊敏で自在だと自認する部分が相手を〈ゴーレム化〉して捉えるという様態のことが問題になっている。(略)
 〈他者のゴーレム化〉の場合、それをする〈私〉は、特定の他者(単数)、または他者集団(複数)に対して眼にみえない境界線を引き、他者(たち)を向こう側に追いやる(もっとも、それは逆方向からみれば、ただの退却・引退・消失にみえるかもしれない)。
 〈自己のゴーレム化〉の場合、それをする〈私の中の部分〉は、自分の中の駄目だと評価する部分、場面、習癖などを侮蔑的に貶下し、それらをあたかも自分ではないかのように切り離そうとする。内省的意識下での、一種の自己分裂である。しかもその自己分裂は一回こっきりのものではなく、場合によっては何度も何度も繰り返される。一度〈愚鈍な私〉を切り離した〈俊敏な私〉は、また後者の中に相対的に〈愚鈍な私〉を見つけ出し、それを析出せしめて、追放するのだ。それは、自分を〈亜・自分〉にすることでもある。(略)
 (略)
 その意味でいうなら、ゴーレムは、〈人間圏の境界〉を行き来する若干奇矯な怪物、または擬似怪物に留まるどころか、〈人間圏〉内部の至るところに出没する亀裂的な因子、自己差異化的な因子なのだと述べていいのだ。それは〈人間の自己同一性〉という害ねから、自明性と安定性を取り去る。人間は、他者や自分の中にゴーレムを見出し、それを忌避し、遠ざけようとする。その距離化的な運動が至るところで起こることで、〈人間圏〉全体が不穏に揺れ、騒乱的な雰囲気をじんわりと醸し出すのである。(金森修『ゴーレムの生命論』平凡社平凡社新書〕/2010年/p.202-204)

作家は、自ら造り出したゴーレムとともに踊る。ゴーレムから殴られることを想定して、改良を重ねる。ゴーレムを亜人として見下すことなく、その尊厳を認めて、対等にやり取りするのだ。その態度は、ゴーレムだけでなく、他者や自分自身に対しても向けられよう。それが核にあるために、作品に強度があるのではなかろうか。