可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『第25回岡本太郎現代芸術賞(TARO賞)』

展覧会『第25回岡本太郎現代芸術賞(TARO賞)』を鑑賞しての備忘録
川崎市岡本太郎美術館にて、2022年2月19日~5月15日。

岡本太郎の精神を継承し、「自由な視点と発想で、現代社会に鋭いメッセージを突きつける作家を顕彰する」岡本太郎現代芸術賞(TARO賞)。第25回の応募作品578点から入選作家24名の作品を展示。

 

中澤瑞季《Forest》
3人の女性で構成される樟の彫像にアクリル絵具でグリム童話のモティーフとした人物を描くなどして重ね合わせた立体作品3点。1つ目の作品は、円形の台座の上に正面を向いて正座する女性像、その頭部と一体化したもう1つの台座に2人の女性が前後にぴったりと身体を重ね合わせて横向きに立っているもの。正座の女性の頭部や、その上の後ろ側に立つ女性の頭部は、樹冠のような広がりを持つ。白木の3人の女性の身体には、少年と向き合う女性や髪の毛に包まれた人物など、グリム童話をモティーフとしたキャラクターがアクリル絵具で描かれ、あるいは付加されている。2つ目の作品は、円形の台座の上に足を崩して座る女性が背中を見せて座り、彼女の上に立つ女性の両脚を支えているもの。その立ち姿の女性の頭上には横向きに座る女性が表わされている。それぞれの白木の女性像には赤頭巾などのグリム童話のモティーフがアクリル絵具で重ねられている。3つ目の作品は、膝立ちする女性像の上に横に並んで正座する女性像が重ねられたもの。白木の女性の身体には赤子を抱える女性など、グリム童話のキャラクターが加えられている。白木の像の頭部と描かれるキャラクターの頭部とは位置がほぼ重なるが、後者の方が小さいスケールで表わされているために、キャラクターたちが白木の像に埋め込まれた形になっている。白木の女性像は2つないし3つの台座と一体化し、カリアティードを思わせるが、建物を支えてはいない。支えるのはグリム童話だからだ。タイトルに"Forest"を冠するのは、童話の多くが森を舞台にすることを暗示するためである。

 そうすると、おとぎばなしという不思議な文学形式のことがもう大方わかってきたような気がします。作者がいなくて、人間の集団のなかから自然発生的に生まれ、世界のあらゆる国、あらゆる時代に似たような筋書きが骨格としてあり、その骨格はなかなか失われない。したがって非限定で、時代もわからない、場所もわからない、主人公の名前すらわからない文学形式であるにもかかわらず、読むと、なぜかどこかで聞いたことがあるような、懐かしいような切ないような、意図された教訓とはちがう何か大事なことを教えてくれるような気がするものだ、ということです。
 内容的にもおもしろことがあります。おとぎばなしの懐かしさはどこから来るのか。おとぎばなしに共通した特徴として、背景にひろびろとした自然がある。いつも森がそばにあるような感じがする。事実、森のなかで展開する物語がすこぶる多いですね。赤ずきんちゃんは森のなかで狼と出会ってひどい目にあう。ラプンツェルは森のなかの高い塔のてっぺんにとじこめられてしまう。ヘンゼルとグレーテルは森のなかで迷って、人食い老婆のお菓子の家にたどりつく。(略)
 (略)
 人間が定着して農耕社会をつくる。農耕は「キュルチュール(culture」で「文化」とおなじですから、これの対立概念は「未開」あるいは「野生」で、フランス語なら「ソヴァージュ(sauvage)」。その語源はラテン語の「シルヴァ(silva=森)」ですから、「文化」と対立するものは「森」だということになります。人間は長いこと森のなかで生活していた。森と自分を区別できないような感じでそこに融けこんでおり、森のなかの木の実や獣たちを食べてくらしていたのでしょう。ところがある日、人間は森の外に出た。出たとたんに森は人間にとって外的なものになった。概念の対象になった。マルクス風にいえば、森を疎外したといってもいい。森の外にでて耕地をつくるようになりましたが、耕地をつくるということは森を伐りひらくことでもある。森を伐りひらくことによって人間は文化をつくりはじめた。
 (略)
 日本語では「森」と書いて、木がいっぱい集まっている場所のイメージをつくりますが、「杜」という字もあります。この2つはややニュアンスが異なっていて、「もり」をあらわす言葉には2種類があるともいえる。ヨーロッパでも、まず、フランス語なら「ボワ(bois)」、英語なら「ウッド(wood)」という言葉があり、どちらももとは「木」ですから、木が複数ある状態、いっぱい生えている場所を「ボワ」とか「ウッド」という。日本語でも「森」は視覚的に木がいっぱい生えているありさまですね。木がいっぱいあるということは、人間にとって木愛などをとってくるのに適した場所ですから、いわば利用価値としての森です。人間に役立つものとしての森。ところがもうひとつ、フランス語の「フォレ(forêt)」とか英語の「フォレスト(forest)」という言葉があって、いずれもラテン語の「フォレスティス(forestis)」という言葉から来ていますが、こちらは人間の境界の外にある聖なる領域としての森、杜です。単に木の集合ではなく、神の住むところです。
 その神をローマ人は「シルヴァヌス」と呼びました。聖なる場所ですから、人間がそこへ一歩入ると、日常的な現実とはちがうものを味わうことになる。そこではさまざまな魔法がおこなわれ、さまざまに奇怪な出来事がおこる。(略)
 人間が森と長いこと共存してきた歴史がそういう感覚を育てたわけで、べつだん迷信で森を特別に仕立てているわけではなりません。おとぎばなしにはそういう感覚が記憶されています。おとぎばなしの主人公は、グリムのヘンゼルとグレーテルにしても、アファナーシエフのの美しいヴァシリーサにしても、ペローの親指小僧や赤ずきんちゃんにしても、森のなかへ出かけたり捨てられたりして、そこでいろんな不思議な出来事に出くわします。これは不思議なだけであって、不気味でも異様でもありません。ごく自然に、当然のようにして不思議なことがおこる。そして、そういう不思議な体験をしてから森を出たとき、主人公はいきぶんか別人になっています。(巖谷國士シュルレアリスムとは何か』筑摩書房ちくま学芸文庫〕/2002年/p.138-147)

女性像は(樟で作られているのだから当然と言えば当然だが)頭部の樹冠のような表現によって樹木をイメージさせるのみならず、それらが複雑に組み合わさり立ち並ぶことによって森のイメージを呼び込む。女性の身体が森というメルヒェンの舞台として選ばれているのは、物語を生み出す母胎として、あるいは森同様に開発・搾取の対象としてのイメージも重ね合わされているのかもしれない。
女性像が3人で構成されているのは、女性像≒木が3つで森を表わすためもあろう。だが3にはメルヒェンとの因縁もある。

 われわれは、子どものころに早くも3のパワーを知る。「昔むかし(once upon a time)」 という語り口にワン(1)が出てくるとしても、おとぎ話にとって真の数は3だ。手袋なくした3匹の子猫から、尻尾を切られる3匹の盲目のネズミまで、3が大きな意味をもっている。3匹の子豚なしに満腹の狼が1匹いただけでは、物語にならない。たとえ腹ぺこのオオカミがひとりで3回プーッと息を吹いたとしても、それだsけではだめだ。熊の家に迷い込んだゴルディロックス(金髪の女の子)の話は、3がなければ台無しだろう――過ぎたるものや及ばざるものがなければ、ちょうどいいものなどあるはずがない。ゴルディロックスがおあつらえ向きのベッドでうっかり寝込んでしまう前に、椅子が3つ、おかゆのお椀も3つ、ベッドも3つなければならないのだ。また、好機はいつでも3度ある。魔法のランプの精は、外に出ると、必ず3つの願い事をかなえてくれる(ただし、願い事の数を増やしてほしいといった願い事はだめだ)。王には3人の息子がいるものと決まっていて、必ず末っ子が森で摩訶不思議なものと遭遇して3度のチャンスを与えられる。もしくは、3つの冒険をして、最後には求めていたものが得られ、心から愛する女性と結ばれる――その道中でトロイアの街を破壊するようなことはなく。(バニー・クラムパッカー〔斎藤隆央・寺町朋子〕『数のはなし ゼロから∞まで』東洋書林/2008年/p.67-68)

3人の女性像の彫刻が3つ並べられ9人の女性像で構成されているのは、ミュージアムの語源ともなっている芸術の女神たちを想起させる。

 ギリシャ神話では、神々の王であるゼウスと記憶の女神ムネモシュネとのあいだに9人の娘が生まれたとされる。彼女たちが、芸術や学問のインスピレーションを与える9人の女神で、ムサと呼ばれる。カリオペは叙事詩の、クレイオは歴史の、エラトは叙事詩や恋愛詩の女神だ。メルポメネは悲劇を、ポリュヒュムニアは讃歌を、タレイアは喜劇を司る。そしてウーラニアは天文の、エウテルペーは音楽の、テルプシコラは舞踊の女神だ。(バニー・クラムパッカー〔斎藤隆央・寺町朋子〕『数のはなし ゼロから∞まで』東洋書林/2008年/p.190)

 

硬軟+stenographers《速記美術のエレメント》(特別賞受賞作品)
壁面を暗緑色にして黒板として白い速記文字を書き込んだところに、4年分の『日本の速記』誌、速記文字による絵画、吉原治良の具体美術宣言に擬えた「速記美術宣言」その他の資料が展示されている。速記文字もアラビア文字も解さない者にって、偶像崇拝を厳格に禁じるイスラーム聖典を記すのに用いられているアラビア文字にも見える(それに埋め尽くされた空間は、ミシェル・ウエルベック(Michel Houellebecq)の小説『服従(Soumission)』を連想させた)。既にグラフィティが美術史に組み込まれている現状において、書画一体の伝統を踏まえても、速記文字が美術史に組み込まれる可能性はありうるだろう。国会で政治家がやり取りする言葉の中に、断簡にして鑑賞する対象が現れるだろうか。

 

高田茉依《8,000,000》
「世界の仮面を引用し、八百万の神のように存在する私の/誰かの神・英雄を表現」した立体作品。タイトルは「やおよろず(八百万)」をアラビア数字に置き換えたもの。白い壁面に整然と並べられた仮面は、標本や図鑑を連想させた。作者の意図を超えて、個々の文脈から切り離されることで呪術的な力を剥ぎ取られイメージとなってしまう、ミュージアムなどの機能を浮き彫りにしていたように見受けられた。

 

GengoRaw(石橋友也+新倉健人)《蒼頡AI》
象形文字である漢字がイメージからどのように生まれたかをAIに学習させ、漢字を発明した伝説上の人物に因み「蒼頡AI」と名付けられたそのAIに、図像から新たな文字を生み出させたもの。映像作品では、AIがイメージからどんな文字(形)を出力するかを鑑賞者に予想させ、結果との違いを楽しませる趣向となっている。葉の繁る樹木からはヤマタノオロチのような文字が生じ、カメラの前で動かした掌からは牙・良・田・月に近い形などが現れる。象形文字のイメージの偏りが明るみにされているとも言える。漢字を借用してきた日本語に対し、ハングル(한글)のように、新たな文字を創作する試みも期待したい。